季節の俳句講座特集

第1句集を読む 師系を超えて(4)

【2021年(令和3年)7月5日】

京極杞陽『くくたち上・下』
破天荒というまじめさ――櫂 未知子

10kai.jpg〈うまさうなコツプの水にフリージヤ〉。この句から京極杞陽に注目しはじめた。普通の人にはないこのような視点の育まれた背景を探るべく、まず生い立ちを追いたい。
明治41年に旧豊岡藩主の家系に生れた杞陽は、学習院中等科時代に関東大震災により姉一人を除く家族全員を失った。裕福な環境に育ちながらも、家族の死は大きな虚無感を杞陽に残したのではないだろうか。そして結婚し長男も生れ、東京帝国大学を卒業の後、昭和10年から11年にかけてヨーロッパに遊学したことも、杞陽に大きな影響を与えたと考えられる。その外遊の最中、ベルリン日本人会の句会に高浜虚子を迎えた際に〈美しく木の芽の如くつつましく〉を出句しており、『くくたち』の序文において虚子は杞陽との出会いを懐しんでいる。帰国後は宮内庁に勤務、戦争を経て貴族院議員に当選するも、すぐに議員資格を失った。戦争を含むその激動の時代の句が、『くくたち』には収められているのである。
ベルリンで出会い、そして帰国後の大阪で偶然再会した虚子を、杞陽はひたすら崇拝した。その虚子に対する杞陽の追悼文の独特な視点が、杞陽自身の俳句と見事に一致しているのである。「私は今ライスカレーをたべながら、虚子先生はたうとう注射以外の榮養をお攝りにならなかつたのだなと考へた」「もう先生の御馳走はお線香の煙より他に無い」といった異色の内容は、前述のフリージヤの句や、「終戦」と前書の付された〈ふとアイスクリームといふことばいで〉に通ずるだろう。
杞陽の生い立ちと感覚の独特さを踏まえた上で、『くくたち』の特色を考えたい。まず〈チロールのスキーの歌を夜にうたふ〉はじめ巻頭3句がスキーの句であり、遊学の際に熱中したスキーへの思い入れが窺えること、〈百日紅仏蘭西風と見れば見ゆ〉に見られる外国への関心、〈汗の人ギューツと眼つぶりけり〉のようなオノマトペの活かし方――これらはいずれも特徴的である。また、杞陽の「引算を知らない」一面として〈尾根雪崩れ鳴りどよみひんひんと余韻消ゆ〉が挙げられるのだが、同じ句集に〈青天に音を消したる雪崩かな〉というごくシンプルな句が収められているところに、杞陽の破天荒さを感じざるを得ない。そして、〈浮いてこい浮いてこいとて沈ませて〉の微かな寂しさ、〈日向ぼこしてはをらぬかしてをりぬ〉の脱力感は、杞陽なりの写生によって醸し出される魅力である。さらに、「虚子先生、小山氏より好意の弁当・卵・牛乳・及び一匹の縞蛇くすりにてとておくられ持ちて汽車に乗り遙但馬に向ふ」という長い前書があってこそ理解できる〈いろいろのことの中なる蛇のこと〉、そして前述のアイスクリームの句などの戦時詠も、至極独特である。
第一句集と考えると、『くくたち』は制作方法もまた奔放そのものである。頁ごとに掲載句数が様々であるのもその一例であろう。また、私の入手した『くくたち』に挟まれた葉書には、〈性格が八百屋お七でシクラメン〉がなぜ『くくたち』に収載されなかったのかという問合せに対して、「入れ忘れた」という旨の回答が記されており、いかに無造作に句集を纏めたかがわかる。
静かな写生句がある一方で、言葉満載の句もあるこの句集とその制作過程に滲み出る大らかさ、そして虚子をひたすら仰ぎながらも、自分なりに句作し句集を編んだその「破天荒というまじめさ」を以て杞陽は稀有な俳人だったといえる。どの頁にあっても次にいかなる仕掛が繰り出されるかわからないという魅力を味わうべく、ぜひ全句集ではなく実際の本を手に取ってもらいたい。(小山 玄紀)

加藤楸邨『寒雷』
かがやかしき詩魂――井上 康明

10inoue.jpg 加藤楸邨の第11句集『吹越』に〈おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ〉という句がある。自己を「かたまり」ととらえる楸邨の胸中には、マグマのように混沌と渦巻く自分自身があったと思われる。楸邨が自分自身を作品にどう表現したかを考えつつ『寒雷』を読んでみたい。
楸邨は、明治38年生まれ。駅長だった父に従い、小・中学校時代には転校を繰り返した。父が病に倒れたため、中学卒業後石川県で代用教員となり、大正14年20歳の時に父が亡くなると、母、弟、妹を連れて上京。東京では職がなく、水戸で代用教員になった。昭和4年に埼玉県の粕壁中学の教員となり、チヨセ(知世子)と結婚。昭和6年に同僚に誘われて俳句を始め、「馬醉木」に投句するようになる。水原秋櫻子の勧めで昭和12年に上京、『馬酔木』の編集をしながら、32歳で東京文理科大に入学、昭和15年に卒業した。
句集『寒雷』は昭和14年刊。翌年に、主宰誌「寒雷」を創刊、さらに15年の作品を加えた増補版を刊行した。著者26歳から35歳の青年後期、粕壁から東京の生活の中で自然と都会を詠んだ句集といえる。
秋櫻子は、『寒雷』の序を「『寒雷』を熟読して著者のかゞやかしき詩魂に触れたまへ」と結び、楸邨自身は増補版の後記に「自然も人間も俳句そのものも、自らの重さで立たしめたいと念じてゐる」と記す。
楸邨は、俳句の前に短歌に親しみ、生涯短歌を作りつづけた。父が亡くなった時に〈陋巷に命おはると二月七日父はまなこをひらかざりけり〉と詠んだように、作歌を通して、事実に気持ちを添わせ、言葉と自分の心とのやりとりを行うことに手応えを感じていたと思われる。
「古利根抄」は昭和6年から9年の句を収める。短歌的抒情にあふれた〈棉の實を摘みゐてうたふこともなし〉、的確な描写が光る〈はしりきて二つの畦火相搏てる〉、大景を捉えた自然詠〈夏雲雀あがりし蕗のあらしかな〉などのほか、次女明子が2歳で亡くなった時の〈茘枝熟れ萩咲き時は過ぎゆくも〉は余韻に心情を込め、〈日も月もめぐりて梅は古りにける〉は秋櫻子からホトトギス離脱を聞いた時に詠まれた。
続く「愛林抄」は粕壁での生活と旅を詠んだ句を収める。〈海山の相搏つところ雪の驛〉は日本海の大景を描き、〈麦を踏む子の悲しみを父は知らず〉は教員として子どもの生活に寄り添う中から生まれた。鳥を詠んだ「愛禽抄」一連の〈かなしめば鵙金色の日を負ひ来〉は感情とイメージをぶつけ、〈鷹翔てば畦しんしんとしたがへり〉には緊張感とたかぶりがあり、〈冬の鷺歩むに光したがへり〉には自然への讃仰がうかがえる。
「都塵抄」は、東京での生活を詠む。自分の思いを大切にして表現と格闘したような〈真夜の雷傲然とわれ書を去らず〉、短歌の場合と同じように内心を説明せず事実だけを述べた〈蟻殺すわれを三人の子に見られぬ〉などのほか、学問をする寂寥を詠んだ〈大学のさびしさ冬木のみならず〉、触覚と聴覚を一句に表現した〈わが凭りし冬木戦車の音となる〉があり、〈寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃〉は句集名となった。
増補版に追加された「達谷抄」の〈寒雀没日は胸にとどまらず〉は戦死した教え子への悲しみを率直に詠み、〈砲音あり蹠犇めく露の土〉は飛躍した表現で現実を超え、〈蟷螂の死に了るまで大没日〉にはドラマがある。
『俳句表現の道』(昭和13年刊)で楸邨は、「自分が感得した実感を(中略)矢も楯もたまらない、表現せんとする力がこみあげるまで、これを育てあげるのです」という俳句観を表明しているが、そうした努力を経て生み出されたのが『寒雷』の諸作だといえる。(舘野 豊)

田中裕明『山信』
頭に韻を掲げて――尾池 和夫

10oike.jpg 私の俳句初学の頃、『山信』の〈菜の花や河原に足のやはらかき〉等に出会い響きの良さに感銘し、しばらくしてそれらが頭韻を踏んでいることに気付きました。漢詩には脚韻がありますが俳句にも韻があることを始めて知りました。さらに、あとがきの「山だより。山ごころ。海ごころ。集名は秋暁の夢にありました。」の謎めいた言葉も気になります。
『山信』について多くの方が書かれていますが、当時の裕明の人となりや作句姿勢に触れた草深昌子氏の文は、裕明とその句を理解する上で役に立ちます。
氏は『山信』冒頭の4句〈紫雲英草まるく敷きつめ子が二人〉〈今年竹指につめたし雲流る〉〈菜の花や河原に足のやはらかき〉〈梅雨に入り藤棚の下人もなく〉のまるく、つめたし、やはらかき、人もなくの主調が裕明の生涯の作品に貫かれているという。
また、高校時代の句〈炎天下起重機少し傾いて〉について「炎天や」、「傾きて」が良いのではとの問題提起に対して原句を貫いたことに「周到な句作り」と「少しでも裕明らしくないポーズが入るのを嫌った」姿勢があったこと、またその頃の句を『山信』に登載するに際し推敲したのが3句のみという事実に、すでに「俳句の基本を知悉し」「詩の中心を言葉で射抜く」詩情があったと述べています。
裕明は、京都大学で電気工学を学び、その後、村田製作所で多くの誘電体の論文を発表することになります。そうした裕明を氏は「理系の観察眼の鋭さに加え、理屈で割り切れないこの世の真理を信じている人」と描写しています。まさにその通りであると思います。
私は、俳句とは「東洋の思想に拠り」、「演繹的思考に立ち」、「天地人の視点」、「現在の現象を現場で見る三現則の視点」、「フィールドワークの視点」、「頭韻の視点」、「好き嫌いの視点」で「平易な言葉で歴史に残る力強さで詠む」ことと考えています。ここで天とは自分の目線より上、空や星、雲などを見る視線、地とは自分の目線より下、植物や動物、川の流れなどを見る視線、人とは、人に目を向ける視線です。
天地人の視点で分類する『山信』全百句中、天の句は僅か3句、地と人の句が半分ずつです。試みに私の第一句集や他の何人かの作品と比較すると『山信』は人の句の比率が特に高く、岸本尚毅氏の「裕明が抱え込んでいる時空は大変に広くて奥の深い」しかし「まっすぐ前を向いて歩く人」にぴったり呼応します。
具体的に『山信』の幾つかを天地人に則して見てみます。
天の句・〈今年竹指につめたし雲流る〉ひょろりと伸びた今年竹を見上げると流れる雲がある。普通の景色ですが、竹に触れてその冷たさを感じています。〈炎天下起重機少し傾いて〉炎天下の地面から見上げたクレーンが少し傾いて何かを吊りあげようとしています。工事現場の暑さが伝わる句です。〈鳶もまたしたしき鳥よ青嵐〉青嵐は鳶と呼応して未来への意志と若さが感じられます。青嵐が非常に利いています。
地の句・〈菜の花や河原に足のやはらかき〉頭韻の強く印象に残る句です。〈石段を流れきて竹落葉かな〉物事の変化、時間・時空を超えたいろいろな変化がここに出てきます。
人の句・〈大学も葵祭のきのふけふ〉葵祭には沢山の大学生がアルバイトで参加します。大学も葵祭の真っただ中にあるのです。
私が見た田中裕明は、まっすぐに前を見つめ、無限に拡がるこころの時空に立ち、新しい取り合わせの可能性を示し、余白を存分に活かしつつ、普通のことばで俳句を詠み、個性的な散文を書き、誘電体の研究の先端を行きつつ、何よりも家族を大切に思う、そんな青年の姿です。(大島 幸男)
 

澁谷 道『嬰』
俳意と美意識――細谷 喨々

10hosoya.jpg 今から20年位前に「NHK俳句」のゲストとして共に呼ばれ、その時初めてお目にかかった。その後句集『紅一駄』『蕣帖』とお手紙を送ってくださった。〈袋角夕陽を詰めて帰りけり〉等、前衛という感じは全然なかった。その後、『澁谷道俳句集成』を送っていただき、後ろから読むと、前に行くにつれ、「一筋縄では」という句が多くなってくる。
もう一度お会いしたかったが、蛇笏賞受賞後転居され、今現在の消息は分からない。
最初に道の第1句集『嬰』刊行以降についてお話したい。
昭和42年、『嬰』について瀧春一が「この著者は芭蕉や蕪村を読まずに俳句を始めたのであろう」と結構きつい評を「暖流」に書いたことに衝撃を受け、芭蕉関係の書籍を読み耽る。その後、橋閒石に特別講義を受ける。
昭和51年、金子兜太に手紙を書き、「海程」同人に。
昭和52年、第2句集『藤』刊行。〈人去れば藤のむらさき力ぬく〉〈玉蟲を拳ゆるめて光らしむ〉両方とも分かる句。兜太は「覇気がなくなった」とも。道が生涯で刊行した句集は9冊。
平成22年、第10回現代俳句大賞受賞。平成23年『澁谷道俳句集成』刊行。平成24年、第46回蛇笏賞受賞。
昭和15年8月、祖父澁谷盛孝が京都高等学校2年生の道を東北の旅に誘った。渋々同行したものの、仙台に着いたところで祖父の袂を摑んで帰って来てしまう。澁谷家は元々新庄にあり、戊辰戦争で焼亡したのをきっかけに父祖の地を離れたのだった。元禄2年6月、澁谷家三代目の盛信、甚兵衛兄弟が芭蕉主従を新庄に招き歌仙を巻いたことは代々伝えられていたが、証拠がなかった(のちに裏付ける資料が発見される)。祖父は道に父祖の地を見せておきたかったのだろうと述懐している。
『嬰』までの略年譜について。
澁谷道は大正15年京都生まれ。2歳で腹部手術。6歳で百日咳。2歳の妹・教に伝染。妹は死亡。
昭和18年、大阪女子高等医学専門学校に入学。同級に外池鑑子、一年上に八木三日女。昭和21年、平畑静塔が精神神経科教授として赴任。一人目の俳句の師に。昭和20年、3月、名古屋の大空襲で父母被災。母、病臥。終戦の後、12月に死去。昭和22年、西東三鬼、橋本多佳子、波止影夫ら俳人が来校、句会が開かれた。昭和23年、「天狼」創刊。投句を始める。昭和24年、医師免許取得。その後京都国立病院などに勤務。昭和33年、大阪市住吉区に小児科内科澁谷医院開設。昭和39年、「縄」改題「夜盗派」復刊。立岩利夫、東川紀志男、外池鑑子、浜中薫香らと以後15年間自宅句会。
昭和41年、第1句集『嬰』刊行。題簽・装丁は永田耕衣。
〈月に棄つ花瓶の水の青みどろ〉〈馬駆けて菜の花の黄を引き伸ばす〉〈炎昼の馬に向いて梳る〉〈病みし馬緑陰深く曳きゆけり〉〈右手つめたし凍蝶左手に移す〉〈母逝きて夜の石橋すべて石〉〈日時計の刃が撫で切りに落椿〉〈メス沈め湯が労働者として沸る〉。
「序のごとく」で平畑静塔は〈馬駆けて......の時、著者は大阪女子医専の学生であった。―中略―『嬰』を一貫している速度の美しさの端緒がこの一句から出発しているといえる。〉と。
「あとがき」に道は「嬉しくても悲しくても傷つく様な生き方とは『嬰』を出すことで別れたいと思います」と書いている。
道と同じ大正15年生まれの茨木のり子は「わたしが一番きれいだったとき」という詩の中で、〈だから決めた できれば長生きすることに〉と。しかし平成18年に79歳で亡くなった。でも道は生きている。もしもう字が書けなくなっていても、心の中で美しい俳句を詠んで欲しいと願う。(中根 美保)

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