秋季俳句講座秋季俳句講座

自作を語る(5)

【俳句文学館 2016年(平成28年)2月5日号】

俳句還暦
今瀬 剛一

8imase.jpg 俳句を始めて60年が過ぎました。人間の年齢で言えば還暦を過ぎたことになります。
振り返ると、水戸の高校時代、俳句の第一の出会いがありました。それは音楽の滝豊先生との出会いでした。先生は「ホトトギス」に常時入選されていた方ですが、先生の添削指導を受け、最初に認めて頂いたのが〈くちすすぎ仰ぎ眺めむ夏木立〉という作品でした。
そして、教員になって最初の赴任地は鉾田でした。その鉾田で、一人の生徒の退学を巡って教員として最初の挫折感を味わったのです。その時の気持ちを〈帰りたし故郷の青田歩きたし〉と詠み、新聞に投句したのです。
この句が山口青邨先生の目に留まり、これが私の俳句の第二の出会いとなりました。私は青邨先生の「夏草」に入会し、東京の「堀の内句会」にも出席しました。青邨先生のお宅を訪問した経験もあります。
しかし、この頃私の身の上に極めて不幸なことが起こりました。62歳の若さで母が亡くなったのです。この時の私は号泣するしかありませんでした。その時の作品が〈母逝きて泣き場所が無し葱坊主〉 〈対岸の木枯は母呼ぶ声か〉等々の作品です。
青邨先生は慈愛深く、真摯な方でした。しかし、何分先生は社会的に地位の高い方で、多忙の余り雑誌の発行も滞りがちでした。
そのような頃「沖」の創刊を知り、能村登四郎先生の指導を仰ぐようになったのです。
能村先生のご指導については、毎月300句の作品を持参して先生のお宅を訪問し指導を仰いだこと、先生を我が家にお招きした折、「俳句は密室で作るものだ」との教えを頂いたこと、そして第一句集の『対岸』に始まり、第三句集に至るまで句集名を頂いたこと等々枚挙に暇がないほどです。
また、飯島晴子氏が第二句集『約束』に解説文を書いてくださり、「これまでの実を踏まえた虚に進め」と励まされたことも思い出深いことでした。
〈あふれんとして春水は城映す〉〈雪嶺の裏側まつかかも知れぬ〉。これらの作品はこの当時の作品です。
さて、私自身と私の周りの俳句作家の発表の場を求めて俳誌を発行する決意をし、能村先生の許可を頂き、俳誌名を「対岸」と定めて発行することになりました。
〈寒肥をまくといふよりたたきつけ〉〈ほんたうは寒くて罷りたる憶良〉これらの作品はこの当時の作品です。
しかし、主宰誌を持ってみて、結社の誰もが私の作品を褒めるのみで誰も辛口の評はしてくれない、あるいは多作の私の作品が乱作になっていないか等々心配になってきました。
そこで、私は結社内に二つの句会を立ち上げました。一つは「魁の会」という句会で吟行に出かけ午前中に30句作り、午後から10句提出10句選の句会を3回やる、という厳しいものです。この句会は多作することと、現場性を確保することの修練の場としております。
二つ目は「叩き会」(現在は「同人句会」)です。この句会ではお互いに徹底的に褒めかつ酷評する。句会の最後に主宰選の佳句について作者が名乗り、主宰は自作を発表する、というものです。この句会では、私自身「口語使用」の問題提起を行うとともに私自身が主宰として自分を取り戻す句会にしております。
〈咲き満ちてなほ咲く桜押し合へる〉(栃木天平の丘公園)
〈紅梅は水戸の血の色咲き にけり〉(水戸偕楽園)
〈面つけてたちまち翁雪の 夜〉(黒川能)
〈月面に人の足跡桜貝〉などが当時の作品です。
さて、俳句還暦の来し方を振り返ってみると、滝先生、青邨先生、登四郎先生のご指導はもとより大勢の仲間との出会い等々沢山の出会いに恵まれたことをしみじみと感じます。
〈登四郎も翔も鷹夫も青嵐〉近作です。
最後に、俳句について結論づけると、先ずその形式は自問他答だと思うのです。短歌は五七五で自問し、七七で自答している、自問自答の形式です。俳句は五七五しかありません。自問しか出来ないのです。答えを出すのは読者なのです。従って、他答の領域が多ければ多いほど佳い句だと言えると思います。
次に俳句の内容としては「あ我れ」を表現する必要がありましょう。対象に感動している自分を発見する、それが「あ我れ」「あはれ」なのです。俳句ではこの「あ我れ」を表現することが大切だと思うのです。
(蓮井 崇男)

乾坤の変が詠えと命じるままに
山本 洋子

8yamamoto.jpg 今日の講座の題は「乾坤の変が詠えと命じるままに」ですが、これは「晨」の30周年記念大会で大峯あきら代表が講演された中の言葉です。これを今回のテーマに使わせていただきたいとお願いしましたら、先生は、「そんなこと言ったかな」と言われました。先生は説得力のある言葉を、無意識に仰っているのです。無意識に言われる言葉に強さがあることを思いました。
私の句の中で、どなたかが、好きな句ですと仰ってくださる句は、やはり無意識ですが乾坤の方からせまられて詠った感があります。社会に出た私は俳句同好会に出会いました。リーダーは「諷詠」古参の松永渭水さんでした。
秋の薔薇女の煙草風にのり
宝塚植物園へ初めて吟行に参加させていただき、後藤夜半選に入ったのです。見たままでいいのだと思いました。
その後に先輩に誘われて「青」の大阪句会に行くようになりました。一方、会社の同好会は外部から講師をお願いする事になり、桂信子先生にきていただきました。我ら同好会と箕面句会が「草苑」の母体になったのです。
昭和56年、第一句集『當麻』は桂先生の推薦、大峯あきら先生の跋文で上梓し、私の俳句の方向性が決まりました。
紅梅やゆつくりとものいふはよき
京都の黒谷界隈を吟行した折、小さな家の門構えの前に紅梅が美しく咲いていたのです。そして家の中から、ゆっくりとした京言葉の話し声が聞こえてきました。紅梅はひときわ美しく思えました。「ゆつくりとものいふはよき」と「紅梅」が一瞬で合体したのです。
夕顔ほどにうつくしき猫を飼ふ
夕暮れ近く、夕顔が鮮やかに開いたばかりの母の家を訪れました。なんてきれいな白なんだろうと思いながら、玄関の戸を開けるやいなや、真っ白い猫が飛び出していったのです。「夕顔ほどにうつくしき」というフレーズは、振り向きざまに出ました。
北行の列車短し稲の花
すこし昔の北陸線敦賀行は長浜で乗り換えねばなりませんでした。お婆さんが乗り込んできて「この車は北行きでっか」と言ったのです。「北行き」という大阪では考えられない言葉に私はびっくりしていました。列車が動き出すと、稲の花の咲くまぶしい光が列車の小さい窓から入ってきました。
ヒマラヤの麓に古りし暦かな
ポカラから1日かけてバスに揺られ、すっかり暗くなってホテルに着きました。灯をともした樹の下に暦売がいました。いろいろと想像をかきたててくれるのは「古りし暦」という季語の所為でしょう。
いくすぢも鳥羽に立ちたる稲光
龍谷大学伏見学舎で京都の大学生を対象に俳句講座がありました。2~300人が入る階段教室でしたが、最後の授業が終わった頃、大きな窓を稲光が幾筋も走りました。学生が雨の中を急ぐのが見えたとき、ここは鳥羽だと気がついたのでした。
宇陀に入るはじめの橋のねぶの花
榛原からすぐ、宇陀川にかかる宇陀の大橋があります。これを渡って深吉野に入ります。今まで何度も来ていましたが、合歓の花に出会うのは、このときが初めてでした。合歓の花は谷筋にずっと咲いていました。
私も80歳になり、桂先生の〈牡丹散るいまなにもかも途中にて〉に、いたく共鳴いたします。
大峯先生も『短夜』よりもさらに平明で深い境地をめざしておられます。〈玄関に蝶一つ来て夏に入る〉〈山寺に牡丹咲いて散りにけり〉
よき先達の背中を仰ぎながら進んでいく幸せを思う昨今です。(草深 昌子)

句またがり、など
鷹羽 狩行

8takaba.jpg 鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)は、本名の髙橋行雄(たかはし・ゆきお)をもじって、山口誓子が命名。俳号からして、「は」と「し」の句またがりになっている。
山形生まれ、尾道育ち。15歳のときに俳句をはじめた。尾道は海あり山ありで、季語の宝庫だった。
稲刈りの進めば進む蝗かな
校内誌「銀河」に初入選した記念すべき一句。
乗りてすぐ市電灯ともす秋の暮
昭和23年、誓子が「天狼」を創刊。初入選。
新妻の靴ずれ花野来しのみに
「天狼」の巻頭となった吾妹子俳句。即物非情の誓子選によく入ったものだと思う。西東三鬼には「もっとも上等のおのろけ俳句…結構ですナア…」と誉められた。
天瓜粉しんじつ吾子は無一物
昭和39年、長女誕生。吾妹子俳句から吾子俳句へ。
落椿われならば急流へ落つ
昭和36年作。地面の落椿を前にして、潔さを願っての句。中七から下五にかけて、かなりきつい句またがりになっている。
句またがりによって分けられた言葉は、一句の中心でなくてはならない。この句の場合は、「急」と「流」。読者は立ち止まって、その箇所を二度読むことになる。
意味の切れ目と五・七・五が一致していない。句またがりは、おどろきの強調、屈折した感情などの、言葉で説明しきれない感情・気分・抒情を表現するときに役立つ。
母の日のてのひらの味塩むすび
昭和42年作。むすびに何も入っていないことが、おふくろの味であり、いびつな形にも母の愛情が込められている。万感の思いを、「てのひらの味」と表現した。
この句、〈母のてのひらの味塩むすび〉までは、すらっと出来た。ところが、季語がない。しかも残りはあと二音。すぐには季語が見つからなかった。
1年くらい経ってふと、母の「日の」と二音が浮かび、「母の日」という季語が入った。こういう季語の考え方もあるなあと自分でもびっくりした。
摩天楼より新緑がパセリほど 昭和44年作。地上102階381メートルのエンパイアステートビルから、足下の100万坪のセントラルパ-クの新緑を見下ろした感動を、なんと詠えばよいか苦心した。
〈摩天楼より新緑を見下ろせり〉では、見たままの単なる報告。「箱庭」という言葉も思い浮かんだが、絵葉書的・日本的になってしまう。そこで、新緑がひとつまみの「パセリほど」といえば、臨場感が伝わるのではないかと考えた。
二滴一滴そして一滴新茶かな
平成4年作。「滴」のリフレインを使った句。同語反復または同音反復は、しらべによる抒情性が加わる。
急須からどっと出てくるお茶が、五滴四滴…二滴一滴。これでおしまいと思ったら、もう一滴。新茶を頂いている楽しさが出たと思う。
鳥雲に帰らぬ数を思ひけり
平成23年作。発表時、東日本大震災の句として解釈された。俳句は、発表した途端に一人歩きをするもので、鑑賞は自由。
私としては、「雁風呂」「雁供養」という季語を踏まえて、傷ついたり死んで帰れない鳥の数を哀れに思って作った。
俳句は時代によって、また人によって、複数の解釈を生み出すもの。短い詩型ならではのことだろう。
天に満ちやがて地に満ち雁の声
平成25年、主宰誌「狩」35周年の自祝の一句。雁の声に、結社の姿を重ね合わせた。これもリフレインの句。

こうしてみると、私の俳句には、句またがりとリフレインが多い。どちらも、内容から生まれるものであって、新奇さを狙って作るものではない。
つねに、新しい表現ができないかと考えてやってきた。伝統を守りながら現代性をさぐる、という終始一貫した姿勢があらわれておればと思う。(鶴岡 加苗)

ひたすら虚子を求めて
本井 英

8motoi.jpg 副題が「ひたすら虚子を求めて」ということなので、今私が虚子についてどう理解しどういうことを考えているかを自作の話と合わせて申し述べたい。
若いころに聞いた星野立子の言葉「思った通りに作る。かっこよく作ってはだめ。上手そうにみえる句は上手くない。上手くなさそうに見える句が上手い」。この言葉の意味は今でも半分くらいしか解ってないかもしれないが、自然にぽろぽろ出てきた句はOKだが頭で作って上手そうに見せたらその瞬間アウトということだろう。花鳥諷詠の俳句の作り方というのは形振りかまわず作っても人に読んでもらえる句になるのだ。
網戸抜け行ける煙草の煙かな
煙草の煙をじっと見ていると停滞することも形が変化することもなく網戸を通り抜けて行く。この発見をそのまま句に詠むことができた。写生ってこういうことかなと実感した句。
かなかなのかなかなとこみあげて鳴く
人の中には言葉の抽斗がいくつも重なっていて上の方にはよく使う言葉が入っている。しかし何かに触発されて下の抽斗から思わぬ言葉が出てくることがある。その何かが季題である。この句もかなかなを聞いているうちに悲しい気持ちになりそれにより「こみあげて」という言葉が引っ張り出された。
息の音のさよならさよなら夜は短か
俳句の功徳は季節の巡りというジャイロの中で暮らしていけること。どんなに辛い時でも句にすることで七転八倒せずにその場をしのげる。だから必ず有季でなければならない。妻の臨終を看取っていた夜の句。
碧落をきはめてもどり夏の蝶
長恨歌の一節を取り込んだ妻恋の句。今この句を読んでぴんとくる人は少ないと思う。言葉にはその時代の価値というものがある。時が経てば作者の真意が読者に伝わらなくなることも仕方がないことだと思う。未来永劫俳句が続いていくかどうか分からないと思いながら、今俳句を作っているのである。
湯に放つ菊の軽さよ菊膾
湯どころの山ふところの初薬師
どちらも題詠で得た句。若くして死んだ子規は空想句を否定したが、さらに50年長く生きた虚子にとって題詠は単なる空想ではなくそれまでの記憶の蓄積の中から生まれた写生句であった。ひとたび俳句をやるとものの見方が変わり常に季題と交流し記憶を蓄積している。題詠はその自身の記憶を辿りその景色を写生しているのである。
最近思っていることは「俳句は口から出任せ」ということ。季題を信じ詩心を信じ心の奥の抽斗から引き出される言葉を待つ。それが頭で考えて選択した言葉ではない「口から出任せ」ということ。〈流れゆく大根の葉の早さかな 虚子〉の自解を読むと、その日虚子はずっとあることを考えていたがふっと「流れゆく」という言葉が浮かび上がってきた。深い様々な思いと偶々目にした川を流れてゆく大根の葉のインパクトがこの言葉を引き出した。これが「口から出任せ」。よく「客観写生」は方法論、「花鳥諷詠」は理念と言われるが自分としてはこの二つは同じことだと思っている。昭和19年の「ホトトギス」7月号に「己をむなしくし目と感覚だけになって季題にずっと写生の眼を注いでいると、初めて相手の季題が心を開いて本当の姿を見せてくれる。それを犀利な写生の腕で引っ〓む」とある。「花鳥諷詠」でも「客観写生」でもいいが、同じこの世に生かされているものとして目だけになって季題に心を投げかけていれば季題が心を開いてくれる。このことが虚子が思い至っていたこと、虚子が残そうとした作句の態度なのだと思う。(山内 裕子)

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