生活者また旅行者として、私は海外での豊富な経験を持っている。そこでそれぞれの国の滞在時期や長さ、深さによる作句姿勢の違いなどをお話ししてみたい。
初期の海外俳句としては第二次世界大戦前の高浜虚子〈売り家を買はんかと思ふ舂の旅〉や山口青邨〈たんぽぽや長江濁る
とこしなへ〉がある。戦後では鷹羽狩行氏の〈摩天楼より新緑がパセリほど〉が1960年代の一番有名な句であろう。
海外俳句の昨今の流行は、江戸時代に芭蕉が「奥の細道」に於て現代でいえば海外のように遠かった「みちのく」を訪ね新しい歌枕や俳枕、風土や民俗を発見し、江戸に居てはできない句を詠むことができたのと同じ気持ちであろう〈雲の峰幾つ崩れて月の山〉。ぜひ芭蕉のように新しい素材を求めて海外を訪ねてほしい。
初めての海外は1959年、博士号取得後シカゴのアルゴンヌ研究所の生活にはじまる。初めての海外での驚きの気持ちで作った句が〈街路樹落葉異国の厚い新聞買ふ〉〈どこ曲らう四角四面な舂の街〉。アメリカをもっと知りたいと黒人街に住んでみて〈ニグロのひげトランペットを吹く月夜〉。その後1971年から2年半程長期にアメリカに滞在し家を買い、一時は永住も考えた頃「アメリカ人になったような気持ち」で〈売る家の薔薇にいささか霜除を〉〈木の実打つ屋根を小栗鼠と分かち住む〉と詠んでいる。
1970年代にはパリ郊外のサクレー研究所、73年にオックスフォード大学、74年にオランダのフローニンヘン大学より招待され、ヨーロッパ各地でそれぞれ3ヵ月程長期滞在している。週末は美術館を巡ったりと、この頃は半分旅人半分住民の気持ちで句を作っている。〈ソーダ水巴里に老いたる女かな〉〈糸ほどの月にねむつてゐる運河〉。
1980年代以降は日本で様々な役職に就き今度は「本当の旅人」として一回の滞在は短くなったが、50数力国へ旅するようになる。なかでも中国へは主に中国科学院や北京大学、上海交通大学の招待により81年以降百回程訪ねることになった。〈長々と北湖をのぽる龍の凧〉〈ジンギスカン走りし日より霾れり〉〈白馬寺の塔に菜の花明りかな〉など楽しかった思い出を詠った句が多い。中国は漢詩や論語、三国志演義、西遊記など地名や人名に親しんでおり俳句が作り易い。アジアは韓国、ベトナム、インド、バングラディッシュ、タイなども訪れたが外国らしく面白い素材が多くお勧めしたい〈白銀の瓜をかかへし百済の子〉〈冬眠の蛇をおこして蛇遣ひ〉。
ヨーロッパも歴史や聖書、文学に親しみ四季があるので作り易い場所だ。特に好きなイスラエルでは〈晩秋の魚を描いて道しるべ〉。ギリシヤは神話があり哲学者がおり、イタリアもたくさんの俳句の種があり好きな国だ。
では海外で俳句を作るにはどうすればよいか。事前にその地の自然、気候、歴史、文化、民俗などを下調べして作つてやろうという気持ちで出掛けることだ。また印象だけで終わらぬよう繰返し同じ場所を訪ね、その土地に馴染み風物や動植物、人々を良く知ることが大切である。青邨先生の教えでもあるが一か所をゆっくり30分位見つめると見えてくるものがある。高速のジェット旅行もできれば避けたい。
どの国の人々とも出来るだけ話すことも大切だ。挨拶や感謝の単語を断片的でも覚えて使えば現地の人が喜んでくれる。「一視同仁」人間は皆同じような気持ちを持っているのだから。特に俳句は短い詩なので単語を並べればできる。世界の人が互いに分り合えるはずだ。
最後に、海外へ行けば食べ物や景色が違い、いつでも新しい句ができ、俳句世界が広まる。皆さんにも俳句を作る旅をぜひ
楽しんでほしい。(内村 恭子)
中学、高校時代に少しかじって中断していた俳句を再開したのは、30代半ばだった。
テレビ報道の仕事に明け暮れる中で、本業以外に打ち込むものをと思い、名前を知っていた沢木欣一先生の「風」発行所へ電話をした。すると、細見綾子先生が出られ「俳句をやるなら句会においで」と誘って下さった。沢木先生の指導方針は「一にも写生二にも写生」である。
若い頃から報道の職場にいて、しばしば事件・事故の現場へ飛んだ。報道の現場で求められるのは、何よりも一党一派に偏らない客観的な視点だ。報道の客観性と、沢木先生の「客観写生」には共通する面があると考えるようになった。
〈瓢箪の尻に集まる雨雫〉「風」入門から2、3年目の頃、ある公園で見た瓢箪の実景。沢木先生に「写生が効いていて瓢箪そのものを活かしている」と、初めて褒められた。
当時の沢木先生の句に、〈秋晴の空気を写生せよと言ふ〉がある。写生とは直接物を見、物に触れ、物の本質に迫ること。それには旅に出て、対象に直接触れるのが一番と考え、しきりに旅をする。
〈嘴に鑢かけらる新鵜かな〉昭和54年、犬山の鵜飼での作。川土手で鵜匠が鵜を羽交い締めにして、嘴に鑢をかけていた。鋭い鵜の嘴が、鵜匠の手や獲物の鮎を傷つけるのを防ぐためだという。鵜の入手先を訊くと、茨城県十王町とのこと。電話取材で十王町の沼田さんが鵜を捕獲していると判明。さっそく現地に飛び、断崖の小屋に海鵜をおびき寄せる現場を見学した。
〈墨糸で眼縫はれし囮の鵜〉海鵜が囮を仲間と思って寄ってくるのを捕らえる。小屋の葭簀の陰から捕獲用の竿を出しても囮が騒がないよう、眼を縫ってあるのが哀れだった。
〈御柱の曳き綱一村貫けり〉旅の初期は、しきりに各地の伝統行事へ。御柱は長野県諏訪大社の7年ごとの祭。大木を神に見立て、山から伐り出し建てる勇壮な行事を詠んだ。
〈酒五石豆腐万丁黒川能〉山形県鶴岡市で、2月に徹夜で演じられる能。1ヵ月前から準備した焼豆腐が、洒とともに観客に振る舞われる。漢字だけで纏めてみた。
〈芥子粒となるまで昇り鷹渡る〉鷹の渡りを見に伊良子岬へ。数羽の鷹が円を描いて鷹柱となり、上空で芥子粒ほどになって南の空へ去るのに感動した。
〈御神渡お供の道の幾筋も〉諏訪湖の御神渡は、厳寒期に結氷が両側から押されて盛り上がる現象。上社の男神が下社の女神に逢いに行く道だという。脇に細い道が幾筋もあるのをお供と見立てた。旅を繰り返し珍しい季語に惹かれるようになる。
〈乾びたる藻を焚付けに雁供養〉青森県外が浜の「雁風呂」の行事。後にこの季語を句集の題にした。
〈打ち打たるにはか役者の成木責〉石川県河北市での近作。柿の木を囲んで責められる木の役の子供、鉈で責める役の大人を、にはか役者に見立てた。
〈はぐれ鳥ふはふは飛んで高?に〉高?は木の枝などに黐を塗り、囮を使って鳥を捕らえる仕掛け。渡り鳥のコースである能登での作。他にも自作には能登の作品が多い。
〈海鼠腸や能登にとと楽てふことぱ〉〈吹かれ来てすぐに吹かるる波の花〉〈千枚田の中の一枚耕せり〉沢木先生の「写
生」とは「今を見よ、物事の本質を見極めよ」ということだろう。私は、写生イコール現場を踏むことと解釈している。
〈料峭や人より長き棒の影〉〈片蔭を出て連れのなきこと思ふ〉これらは、写生だけでは満たされない自己の心象的なものを詠んだつもりだが、如何だろうか(池内けい吾)
俳句をはじめて50年になるが、最初から俳句一筋だったわけではない。いろいろなことを経験し、気がついたら俳句が自分の身に添っていた。短詩型に興味を持つだのは中学生の頃。昭和41年に慶大俳句に入り、本格的に作句をはじめた。
〈晩夏光もの言ふごとに言葉褪せ〉句会に出るようになり、自分の言葉の貧しさを実感した句。その頃IOO句作っては清崎敏郎先生に見ていただいた。卒業時「俳句は私に合っているでしょうか」と尋ねたら、「そんなもん、10年やってみなきゃわかんねえよ」との答えに、気の遠くなる思いだった。
昭和47年に結婚。〈囀に色あらぱ今瑠璃色に〉は新婚時代に上高地で詠んだ句。49年に長男、52年に次男を出産した。「ほそぼそでもいいから続けなさい。子どもはいい句材になるよ」という師の言葉にすがるように俳句を続けた。
〈春宵の母にも妻にもあらぬ刻〉子育て中、句会に出たときだけは、母でもなく妻でもない個人に戻れたような気がした。悩んだこともあったが、仲間がいたことは幸せだった。
毎月「湘南若葉」で辻堂海岸を吟行した。〈日傘より帽子が好きで二児の母〉は自画像。同じ海岸で清綺先生が〈母と子の母の大きな夏帽子〉と詠んで下さり、第一句集『夏帽子』(昭和58年)の題名になった。
〈熱燗の夫にも捨てし夢あらむ〉結婚とは互いに知られないように夢を捨てることである。もっとも、俳句を続けるためには家庭内努力は大切で、清畸先生は「家庭を大事にするように」と常々おっしゃっていた。
次男が幼稚園に入った頃、自宅で午前中の句会を始めた。清崎先生は「やるからには続けろ」のひと言。「窓の会」と名付けたその会は、形を変えて30年以上経った今でも続いている。
〈如月のうすぎぬ展べし海の色〉清崎先生には「言葉が浮かんでくるまで待つこと」とよく諭されたが、「うすぎぬ」という言葉が浮かんだ時、それが腑に落ちた。振り返ると、先生はいろいろな段階で言葉をかけて下さったのだ。
〈馴染むとは好きになること味噌雑煮〉夫は京都の生まれ。白味噌の雑煮を最初は好きになれなかった。結婚して15年、美味しいと思えるようになったときの発見の句。
昭和62年、夫の転勤に伴い、関西に転居。〈この町に生くべく日傘購ひにけり〉来たからにはここで得られる幸福を意識しようと精力的に活動した結果。『虚子の京都』(平成16年)が生まれた。〈運動会午後へ白線引き直す〉〈ひととせはかりそ
めならず藍浴衣〉〈虫籠に虫ゐる軽さゐぬ軽さ〉も関西時代の句。
〈寒禽の取り付く小枝あやまたず〉真冬の植物園。5、6羽の鳥が何の迷いもなく一枝にとまったのが新鮮だった。「自然に厳しい目をむけている花鳥諷詠派でないと理解できないかも知れない」とは清畸先生の評。わかってほしい人に理解してもらえれば救われる。
〈創刊の言をこころに初句会〉平成8年、行方克巳さんと「知音」創刊。島崎藤村の「情熱をして静かに燃えしめよ。湿れる松明の如くに」を創刊の言とした。持続する情熱は大事で、初心の頃に言われた「10年やってみなきゃわかんねえよ」は今でも指針となっている。また、昔からの仲間は人生の宝である。
最近の句では、〈林檎剥き分かつ命を分かつべく〉〈ふたり四人そしてひとりの葱刻む〉。季語の力で自分の人生が詠めたと思う。
〈露けしや我が真言は五七五〉50年経っての本音。自分の句を一句でも諳んじてくれる人がいれば、幸せである。(松枝真理子)
私は平成15年に「駒草」の4代目の主宰を引き受けた。私の俳句の出発点は父と母であった。
父、八木澤高原は、仙台で新入社員の頃、上司で6歳上の日野草城に出会う。高原は草城の職場俳句の下働きをしながら自らも俳句の虜になっていくのだが、その頃の草城はモダンでキラキラと輝いていた時期で、後年「ミヤコホテル」の連作で一時虚子に破門される。
一方高原は山歩きが好きで草城の現代的な俳句には肌が合わなくなる。そんな中、河北新報社の俳壇でおおらかで男性的な阿部みどり女の句柄に惹かれていく。「駒草」創刊時に、みどり女から誘いを受けて、高原はみどり女一筋となるのである。
阿部みどり女は虚子門下にあって女流草創期を担った人で、昭和7年、東京で「駒草」を創刊したが、虚子の言う写生を理解するため、素描画家の森田恒友に絵を習い「写生は物を映しつつもその時の自然の心が映し出される」ことを実感する。それがみどり女の終生ぶれる事の無い作句の姿勢となった。
私は宮城県の多賀城市に生まれた。みどり女は蛍狩などに我が家を訪れ、父の転勤で横浜に移った後も、我が家に宿泊などした。彼女はいつもキリッとしていて、子供の目からは別世界の人に見えてなかなか近寄れない存在であった。
子供の頃の私は本格的に俳句を作ったことは無く、父母の俳句にも興味が無かった。
20代の頃、父の本棚の富澤赤黄男集を何気なく手に取った。赤黄男の句は若者の孤独感、焦燥感を、みずみずしいものに変えていく。たちまち共感を覚えた。やがて、私も「駒草」に投句することになり、みどり女の選を受けるようになった。
父は70歳の時、「駒草」の主宰を引き受けたが、俳号の高原の通り、良く山歩きをした。
〈高きにて遠き薄と吹かれけり 高原〉歩く内に足裏からリズムが伝わり、余計なことが削がれると高原は言う。
〈ひとすぢの枯色通る草氷柱〉雪国の句会の締め切り間際に何も考えずに出来た。「草の色に枯れ草の意志があるようだ」と、宇多喜代子氏に鑑賞を戴いた。「駒草」3代目の蓬田紀枝子主宰は、身辺を詠むことを得意とした。
私は4代目の主宰を引き受けて、3・11を体験する。結社の会員の半数は被災地で、安否確認をするも電話が繋がらない日々が続いた。不安の中、被災地から泥に汚れた3通の句稿が届いた。「遺言のつもり」という文字に漸く消息が明らかになる。人は言葉無しには生きていけないと深く感じた。〈うぶすなは津波の底に鳥曇〉郷里の多賀城の海水浴場は跡形も無かった。ひとりだけ行方不明者がいて、その消息を一年後に訪ねた。志津川湾の少し北の小金沢は、有る筈の駅は無く、線路は曲がったままで、彼女の家は土台しかない。その時の状況を見ていたという鮑漁の漁師に偶然出会った。「彼女ら家族三人は踏切を渡っていた。あと2㍍の処で三人共波に浚われた」漁師は何も手出しが出来ず悔やみ、それが心の傷となっているという。志津川湾の防災庁舎があった所へ足を運ぶ。夕方、何処からかお花を抱えて大勢の人が湧くように集って来た。
〈舂の闇生者は死者に会ひに行く〉この世の人間は亡くなった人に抱かれている。
〈生きてゐる指を伸べあふ春火桶〉この時に主宰をしていたことが非常に大きいエネルギーとなっている。
阿部みどり女の一生は、どうにもならない悲しみを幾度も乗り越えた。〈九十の端を忘れ舂を待つ〉に哀しみを抜けた明るさがある。
年齢を重ねると、みどり女の様に五感が衰えた後でも人生の経験から、こぼれ出たものを詠むことが出来る。五感の衰える齢に至って、内面に底知れぬ芸術性が出てくると思っている。
私の俳句はこれからが本当の俳句。それには写生の修練が大切。やはり俳句から逃れられないのである。(堤 宗春)