秋季俳句講座秋季俳句講座

自作を語る(7)

【俳句文学館 2018年(平成30年)2月5日号】

作句と原体験
柏原 眠雨

6kashiwabara.jpg 原体験とはその人の人格形成や行動の動機づけなどに影響を及ぼしている幼少期の体験のこと。山本健吉は、作品(俳句)のモチーフは作者の原体験に基づくことが多いと言っている。私的な話で恐縮だが、各々に振り返るきっかけとなり、作句の参考になればと思う。
題詠の折には、近い体験を思い描き、その中でモノを見つけて作るが、子供の頃の体験が顔を出すこともしばしばある。例えば〈朝早く蚊帳を抜け出てゆきにけり〉の句は、今は蚊帳を見ることがなくなったので、子供の頃甲虫を取りに出かけた体験を思い出して詠んだ。〈汲みにゆく水鉄砲の弾の水〉なども昔遊んだ記憶による作。
私の大きな原体験の一つに忌わしい戦争がある。6歳の時に大東亜戦争勃発。父親がアメリカ帰りのクリスチャンで戦争中には憲兵が我が家を見張っていたため、軍歌のレコードをかけ軍歌ばかりを歌っていた。〈麦笛を徐州徐州と吹きゐたり〉は麦畑を見て麦笛、さらに兵隊、軍歌へと連想し、軍歌の歌詞の徐州の言葉が浮かんだ。〈牛蒡引く乃木大将の髭もちて〉は、畑仕事をしている人の髭を見て乃木大将の髭だと思った。〈避難所に回る爪切夕雲雀〉は東日本大震災後の避難所で実際に見た光景だが、集団疎開の時に爪切りを使い回した体験があったから小さな爪切りに目が留まった。〈町ひとつ津波に失せて白日傘〉は津波に襲われた南三陸町で3階建ての鉄骨のみが残る光景を見て、集団疎開から戻った時に目にした国会議事堂だけが残っていた東京の焼け野原が頭をよぎった。
そしてもう一つの大きな原体験に教会生活がある。5歳の時に幼児洗礼を受けた。〈聖夜劇羊のひとりねむくなる〉は、クリスマスから連想した日曜学校での聖夜劇。〈読初の片仮名多きマタイ伝〉は、幼い頃から聖書を読むように言われ、子供の頃の本というと私にとっては聖書だった。〈爽涼や招かれて入る祈りの座〉は、ドイツでちょうど礼拝をしているところに通りかかり、教会生活に慣れていたので参加できた。〈教会にホ句の集ひや小望月〉は、俳人協会から20人程でドイツへ行き、教会で連句をおこなった後、「芭蕉と旅」という講演をした時の句。ドイツの教会は何にでも開かれているという驚き。このように経験から生まれる私なりの句ができることがある。
ところで軍歌と讃美歌はどちらも七五調の文語体。「ここは御国を何百里 はなれて遠き満州の...」「神のめぐみはいと高し あふぐ高嶺のしら雪に...」など。聖書も昭和29年に口語訳が作られるまでは文語だった。軍歌と讃美歌しか歌えない私には、原体験として七五調の文語が身に染みついていて、これが俳句にも役立っている。
最後に幼年時代少年時代の原体験から。〈どくだみの暴れはじむる鈴が森〉は鈴が森刑場跡での句だが、私の体験では、どくだみは一輪挿しに活けるようなものではなく、コンクリートの間からやたらと生えてくるもので、暴れ者が処刑された地につながる。〈豆腐屋の濡れ釣銭や桐の花〉〈木登りの木より子を〓ぐ春の暮〉は、仙台の我が家近くでの句。近所の豆腐屋を通った時に昔豆腐を買いに行くといつも濡れた釣り銭をもらったことを、木登りの子を見て、昔は上級生が小さい子を大木の枝分かれのところまで持ち上げてくれたり、おろしてくれたりしたことを思い出した。〈ジャムの瓶洗ひて蝌蚪を持ち帰る〉は蝌蚪をバケツに入れて持ち帰ると子供はこぼしてしまう経験から蓋のある瓶で持たせた。
このように思い返してみると幼年期や少年期が折々に顔を出してくる。中でも、戦争体験や教会生活は、自分の個性であり作句の個性にもなっている。(佐々木潤子)

私にとって俳句とは
榎本 好宏

6enomoto.jpg 私の周囲の俳句仲間を見渡してみると、二通りのタイプに分けられると思います。一つは、文学や芸術とかに興味を示さず、ひたすら俳句に専念する人たち。もう一つのタイプは、逆に文学や芸術に興味を示しながら、その表現手段として俳句を選んだ方々。これまでを振り返ってみて、私は後者だろうと思っています。
私の家は、父が昭和十八年にアッツ島で戦死、周囲に米軍の空襲が始まったので、東京から群馬の片田舎に疎開したんです。娘時代から俳句をやっていた母は、「ホトトギス」系の「楪」なる会に入りました。
戦後の或る日、虚子の高弟、林周平が隣町にやってきて句会が開かれたんですね。その会に出た母は、林周平の特選に選ばれ、木の短冊に書かれた林周平の作品〈帰り待つ筍飯に布かぶせ〉を貰って、勇んで帰って来たんです。よほど嬉しかったらしく、帰京する折までわが家の床柱に架けてありました。一般的な解釈なら、ご主人か子供が夕飯時に帰って来ないので、お櫃の筍ご飯に布巾を掛けて待っている、程度の意味ですが、長年この短冊を眺めてきた私には、別の解釈がありました。
父の戦死したアッツ島は、守備隊の二千六百人が戦死、生きて帰った人はたった七人でした。林周平の一句に重ねれば、「帰り待つ」は、帰って来るはずのない父であり、「筍飯」は私を頭にした三兄弟のこと、「布かぶせ」の文言は、「この子達を私が守っていますよ」の意になるだろうと、長年この句と向き合ってそう思うようになったのです。ただ、その意を母に問いただしたことは一度もありませんでした。
そんな環境にいたせいか私は、小学校の五年生の時初めて俳句を作り、その後、高校一年生の時のこんな作品が、学校新聞に残っています。〈走るペン途絶えがちなる虫時雨〉〈焚火の火小さくなりぬ人の輪も〉といったものですが、どうも幼稚ですね。
後に俳句を始めて役に立ったのが、会社勤めをしてから出会った哲学者、森有正氏の論でした。名前の通り、明治時代の伊藤博文内閣の文部大臣だった森有礼{{ありのり}}の孫に当たる人で、パスカル、デカルトの研究者です。
東大の助教授からパリ大学に留学し、そのままパリ大学に残って研究を続けました。毎年夏休みには日本に帰って来て、国際基督教大学などで講演、その内容は秋に出る筑摩書房の雑誌「展望」に掲載されたんです。
この森有正氏から私も大きな影響を受けましたが、中でも俳句作りに役立ったのは、著書の『遙かなノートル・ダム』の中で言う、「促し」と「経験体験論」でした。
「促し」とは、「人間には深い『促し』がある。何人もそれを否定できないであろう。『促し』は、ある意味で漠然としているようにみえる。しかし、人はそこから歩みはじめるのである。自己の認識などから歩みはじめるのではない」と書かれています。森澄雄門に入ってからのこと、私は自らの心中に顕{{た}}ってくる「促し」を比喩の形で表現することで、自らの中の己れに出会うことが出来たんです。
もう一つの「経験体験論」の方ですが、私流に砕いて言えば、仮に「どこそこで何を見て来た」とか、「展覧会を観てきた」「旅をしてきた」だけなら、これは「体験」に過ぎず、それら体験が自らの深いところを透過し、精神として結実したものが、森有正の言う「経験」だと私は認識したのです。
これら「促し」と「経験体験論」が、後の私の俳句人生の中でどれほど大きな啓示であったかと、今、改めて思います。(三浦 郁)

俳句は、出会い
松尾 隆信

6matsuo.jpg 人生はすべて出会いであるとも言えますが、ここでは、俳句との出会い、俳人との出会い、そして自然等との出会いの中で生まれて来た私の俳句について触れて行きます。
まずは、父との出会いです。
小学2年の夏休みの宿題が出来ていないときに父親から「お前、俳句を作れ」と言われて裏の田圃で3句ほど作りました。〈とのさまがえる足をのばしてとびこんだ〉という句ですが足の所の表現を直され、それで随分と蛙がいきいきしてくるなと思った記憶があります。
私の父は「石楠花」で巻頭をとったこともありましたが、私が小学5年のときに戦病死(結核)しました。私も高校入学後の健康診断で結核と分かり、三田市の国立兵庫療養所に入りましたが、ここで初めて瀬戸内海沿岸と違う雪の体験をしました。
この療養所で俳句と出会い、最初に活字になったのが〈月明の病棟もるるオルゴール〉。同じ頃に〈去る母の前に後ろに秋の蝶〉〈青春の病む胸飾るぼたん雪〉等、雪の経験もたっぷりしました。
安静時間以外は読書するしかないので、大野林火著『高浜虚子』、山本健吉著『現代俳句』や多佳子・誓子・波郷・秋櫻子・草田男・草城等の文庫本の句集を何回も読みました。当時、一番惹かれた俳句が、多佳子の〈掌の木の実ひとに孤獨をのぞかるゝ〉、誓子の〈悲しさの極みに誰か枯木折る〉。正にこの心境が私のそのままの気持でした。
20歳直前に、療養所を題材に「降る雪は溶ける」と言う短編を書き、十代の療養期が終りました。〈誕生日寒き海のみ見て返す〉これが誓子選初めての入選句です。原句は「寒き海光見て返す」ですが、誓子に物そのものでずばり言いなさいと「寒き海」と直されました。私にとって衝撃でした。不死男の「俳句もの説」にも通じています。
〈高くはるかに雪渓光る二十代〉は20歳記念の富士登山の時の句。これらの句は「閃光」と言う変った雑誌に載りました。
「閃光」は前衛を含めたすべての傾向の俳句があって良い経験でした。五千石先生も「子午線」によって、いろいろな傾向を知りました。このことは、五千石先生との、若干共通の経験と言えます。
〈翁の蓑誓子外套脱ぎて見る〉天狼の姫路鍛錬会での作、このとき初めて誓子先生とお会いしました。芭蕉が月山で使った蓑、笠を伝える風羅堂を見学なさった先生は、外套を脱ぎきちんと畳んで持っておられた。その姿勢に思わず衿を正したのでした。
〈歴代の尼のすべての墓に梅〉は東慶寺での作で誓子先生の特選。〈特大の前掛母の日の母へ〉は不死男先生の選評で取り上げられました。不死男先生とは5年位の師弟でしたが、二次会などではお酒の相手で様々なお話を聞きました。
〈月明に妻抱く受胎せよと抱く〉五千石主宰誌「畦」でのデビュー作。以後「畦」時代の三十代は、五千石先生の「眼前直覚」に学び、これを実践する「さねさしのつどい」で先生と共に吟行をしました。その中で〈垂直の花野となりしきりぎしよ〉〈人が生き返る映画や四月馬鹿〉〈おにをこぜ徹頭徹尾おにをこぜ〉などの作が作家や評論家の評を得たのでした。
五千石先生の急逝に遭い、その志を継ぐべく主宰誌「松の花」を平成10年に創刊。「眼前即興」「眼前挨拶」「眼前微笑」を掲げました。この微笑は「滑稽」とは微妙に違います。人生を自己限定し、断念することから生ずる微笑と捉えます。
私は今までに8冊の句集を上梓することが出来ました。人生の秋と俳句の秋を冬に向かって、人をたのしませる弾み玉のごとく志を深く蔵して進めればと思うこの頃です。〈人生に旬のときあり秋薔薇〉〈龍の玉人にやさしくなる齢〉。(佐藤 公子)

しこしこと呟き俳句
西嶋 あさ子

6nishijima.jpg 私は昭和13年山口県下関市壇ノ浦に生まれ、2歳で東京都目黒区に移った。
家族が揃う正月の百人一首では、日頃生真面目な父が読み札を面白おかしく読むことで、子どもの気をそらすことなく、遊びながら言葉に流れるリズムが養われていったように思う。
大学で万葉ゼミナールに入り、詩歌の根の「相聞」に気づく一方、国語学への興味が芽生える。
卒業後、中学の国語教員となる。先輩同僚に「春燈」の君塚愁水がいて、たびたび入会の誘いを受けるが7年断り続けた。が、精神的疲労も極限にあった頃、奈良への修学旅行で同乗したバスから眺めた景色にふと〈コスモスや離れて見ればたくましき〉の一句を得た。誰にも知らせず新聞の俳壇に投稿をすると加藤楸邨選に入る。翌年の昭和46年12月、「春燈」に入会し、投句を始めた。
入ったばかりの京都の勉強会で〈遁れて京に来しことのありそれも秋〉を出すと、翌日の吟行で師の安住敦に「遁れて来た人ですね」と声を掛けられた。嬉しさとともに、名前と俳句は一致しやすいことに気づき、クラス替えのたび、まず生徒に俳句を作らせて名前を覚える手だてとした。
当時「春燈」には、鈴木真砂女、稲垣きくのがきらきら輝いていたが、私は目標を坂間晴子とした。掲載される彼女の句は全て書き写し、君塚さんから借りた句集も書き写す。文字にすることで身に刻んで覚えることができた時代であった。
安住敦は弟子を育てる名手である。老いも若きも区別なく、個性を育て伸ばしてくれる師に出会えたことは幸いであった。
昭和59年、第一句集『読点』刊行。〈想あたためてゐるやも知れず浮寝鳥〉では、見つめる先の対象と通い合う思いが生まれたときのもの。
また、大学ぐるみストライキに入った国会前のデモから帰ると同世代の樺美智子の死が報じられた。〈椎の香に樺美智子の忌は忘れず〉。以降の句集にも一句ずつ収めている。
〈刻かけて消ゆるあはれや大文字〉は、今この瞬間だけでなく、結果として推移の感覚を活かした写生句である。
平成6年、第二句集『今生』刊行。この句集には安住敦との別れがある。入院先のベッドが空になっていたのを見て、思わず外に駆け出していた。〈汗し涙し敦先生さやうなら〉
平成17年、第三句集『埋火』刊行。〈新盆や真砂女時彦そして母〉。平成15年には鈴木真砂女、俳人協会の理事長だった草間時彦を喪った。草間理事長は文学館ができて以来、中味の充実を図ってこられた。夜間の古典講座を受講していた私は講座委員となり、最晩年、その自宅で開かれる句会にも招かれるようになった。様々な調べものの機会を与えて下さり、私の進む方向へのアドバイスも頂いた。
安住敦を一途に師として16年、そしてその倍近く、師のない時間を過ごしているが、折々に励ましてくれる人、見ていてくれる人に囲まれて生きてきた。
平成25年に刊行した第四句集『的〓』で星野立子賞を受賞。〈浮寝鳥夕かたまけて流れけり〉には夕方近くを意味する古語「夕かたまけて」を使った。今生のさびしらに思いを寄せるとき、ここでこそというときに古語が降ってきてくれる。
〈わが死後も戦後長かれ夏の月〉では、永遠の戦後でなければならない思いを詠んだ。
俳句を作るにあたって「降ってくる言葉を受け止める」、「自分の思いで作る」、そして「推移の感覚」も大切にしている。他の人の破調の句であっても、佳い句は佳いとして私の心に響く。
そして今はただ、静かで穏やかな句を詠むことができる世の中であってほしいと願う。
〈青北風の日暮明るき欅かな〉
(土肥あき子)

戻る