私にとって俳句の初心時代は昭和51年40歳に始まる。きっかけは職場である早稲田大学の教員仲間の句会に出たことだった。英文科に鈴木幸夫という俳句好きの老教授がおり、年に2回学内で句会を始め、私にも誘いがあった。それまで俳句を読みも作りもせず、自由詩を時折書くだけで、専ら英詩とつき合っていた。詩とは短くとも14行はあると思っていたので、17音の詩形が窮屈でもどかしく、どれほどのことが表現できようかと疑っていた。再三の誘いの末に重い腰を上げ、2句作って出席した。
大隈庭園に移築された飛騨の民家に22名集まっていた。私の句はなかなか採られず、やっと1点入った句は〈貰ひ火の焼け跡照らす緋桃かな〉。散歩の道筋に火事があっての作。採った痩身の方が「桜井博道」の名刺を下さった。後に知るが「寒雷」「杉」の同人で現代俳句協会賞受賞の早稲田の卒業生。句会顧問の多田裕計は早稲田の仏文科出の芥川賞作家で、「鶴」同人、「れもん」主宰。私は「れもん」を購読し、裕計の選や添削を受けるようになった。率直、懇切に「イメージにダイナミズム(うねり)がほしい」「切れを効かしメリハリを出す」「焦点をしぼって説明や散文化を避ける」等と、句に即した熱心な手ほどきだった。
翌年、大学の在外研究員として英国に暮らし、帰国して句会に出たら3点入った。1年ぶりに日本の風呂を愉しんだ句で〈さらさらと内湯つかへり梅雨の入り〉。採った一人がゲストで見えた川崎展宏。親友の博道に誘われての参加で、私には初対面だった。間もなく裕計が癌で急逝し、「れもん」は終刊した。時々展宏を囲んで小句会を持っていたので、私はある晩展宏宅に出向き、彼を代表に句会報を出すことを承諾して貰った。これが「貂」の出発だった。
展宏は人間探求派の「寒雷」同人だが、虚子の俳句に強く惹かれ、花鳥諷詠は軽蔑の対象という風潮に独り逆らって句作していた。が、花鳥諷詠を従順に追究するのではなく、共鳴しつつも己の天稟に基づく新しい展開を模索した。既に名著『高浜虚子』を世に問うていた展宏を通して、私も虚子の俳句に親しみ、芭蕉の俳句に劣らず愛読し、そこから学ぶようになったのは大きな幸せと思う。展宏の句では、古典と現代、雅と俗の落差、日常と超越との衝突が生みだすおかしみに瞠目し、俳句の広さ、深さ、可能性をさらに知った。
そして私が研究してきた20世紀を代表する詩人エリオットやイェイツの詩・詩論と、古くかつ反近代として新しい俳句との間に、共通する要素を見出し得たのは僥倖だった。大学での研究・教育と、趣味と思われがちな俳句作りがドッキングし、本質的な深い係りを持ち、英文学会や紀要に正面切って発表できたのは、20世紀後半ならではのことなのである。
私は句集を4冊出すに至ったが、近代の詩人が盛んに追求し、表現しようとした自我の小さな意識に拠るものを表すつもりはない。それを超えた自我も非我も自然も共に含んだ大きな意識のうちにあるもの、偉大な「いのち」の流れである宇宙的な消息を、片鱗であっても伝えたいと願う。虚子は「たとい一本の草花、一羽の小鳥を題材にしたものであっても、宇宙と共に居るといったような感情であったなら、其句は偉大なるものと言わねばならぬ。―芭蕉も〈造化に従ひ造化にかへる〉と言っている」と説く。大峯あきらも芭蕉の「乾坤の変は風雅の種なり」を引き、詩歌の源を人間を包んでいる広大な乾坤、宇宙、天地そのものの変化に見つけることを信奉している。私もその末座に連なりたく思うのである。(佐藤 正昭)
30代の終わり、横浜の団地に住んでいた頃、ある俳句の先生のお宅に、句を持っていって見ていただくから、と友人に誘われて、俳句を初めて作りました。けれども先生には「あ、観念ね」と私の句に対して批評された。それまで、観念を書くために詩や何かを書くんだと思っていたのでびっくり。それで書店に行き、初めて「俳句研究」を買いました。偶々阿部完市さんの句が掲載されていて、俳句は「古池や」だけの狭いものではないらしいとまたびっくり。この二つの驚きでこれまで、全く関わりのなかった俳句を突然選択することになってしまいました。ただ、阿部完市の世界は魅力的だけれど真似しては危ないと感じました。つまり、出会ったけれども選択はしなかったわけです。
その後、入った堀井鶏主宰の「群島」は旧仮名遣いでしたが、私は普通の言葉で書こうと現代仮名を選び、先生もそれを認めてくださいました。
昭和52年11月号の「俳句研究」の三橋敏雄特集で三橋敏雄を知ります。どうもこの方は一番言葉にうるさそうな俳人だと思い、教えを乞おうと決心しながら5年経ち、やっとの思いで手紙をしたためました。先生が62歳。私、46歳でした。高柳重信の「俳句評論」の句会にも紹介してくださった。そこでは、もし嫌われるタイプのものであったとしても自分の世界を創るという難題を背負う大変さを私は頭でなく体で知りました。
〈じゃんけんで負けて蛍に生まれたの〉の始めは〈じゃんけんや蛍に生まれすれちがう〉でした。もっと、思い切って! と先生に励まされ〈じゃんけんで蛍に生まれたのかしら〉。 先生はまだまだと諦めず、掲句にたどり着いたとき、先生からやっとOKが出ました。このような先生を、成り行きではなくて自分一人で、しかも、その作品を読んだだけで選んだ、実は、そのことが私にとって一番の自慢できることと思っています。
〈五十回春来て鏡囲いの朝〉という句は〈五十回春来て鏡囲いの刑〉でしたが、50歳になった女性が明るい春、鏡に囲まれる状況は、言わなくても「刑」であるとわかるという三橋先生のご指摘で「朝」に。ところが後日、攝津幸彦がそのことを知って何かの時に「惜しかった。刑の方が数倍よかった!」と。
〈定位置に夫と茶筒と守宮かな〉〈息吸えば吐かねばならず曲がり茄子〉などは「俳句評論」で出会った女性たちの幻想的で文学的な匂いのする領域を敢えて避けて出来た、女っぽくない愛想のない句です。事実というものの、格好の悪さを素気なく詠むのも、わが進むべき道の一つと思いついたんですね。
〈玉砕の島水筒の腐りがたき〉〈前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル〉〈戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ〉など、何故、無季である難しさを押してまで戦争という主題の句を作るのか。例えば「近眼鏡」の句は父が軍医として満州へ出征する時、たくさん眼鏡を持って行ったらしいんですが、敗戦の1年前、チフスに感染して死にました。戦場には行かなかった。7歳の少女スミコサンは父の死に出会い「死んだ人には金輪際逢えない」ということを体感しました。しかも父の死は、その時代の敵国をも含めた若い男たちの中の、ほんの一例です。私は遺されたものの一例です。ですから私は「父の眼鏡は」と書く気はなく、戦場には行かなかった父なんですが「戦場に飛んだ」にちがいない大勢の若い兵士たちの眼鏡を思って書いたんです。
そして、知りたいと言われたわけでもないのに、自分のことを書いて公表する、それは恥ずかしいことだという思いがあります。私は私を人間の一例として写生したいのです。
〈先生ありがとうございました冬日ひとつ〉。(津髙里永子)
私は昭和12年、満州のハイラルに生まれました。当時父はソ満国境の警備に従事していました。14年、日本が戦争に突入していくという気運の中、母と兄と私の3人で父の故郷の岐阜に帰りました。帰国後父は戦死しました。私は2歳でした。小学2年生のとき終戦を迎えましたが、父の記憶は全くありません。
俳句との出逢いは友人から誘われたことによります。大学1年のとき「俳句をやらないか」と誘われ〈朝刊をかすめる春の鳥の影〉と詠みました。たまたま石川啄木の『鳥影』を読んでましたので「鳥の影でいこう」と思った訳です。大学時代は「阿寒」に投句。その後「天狼」を経て41年「風」の沢木欣一先生と出逢いました。以来「風」で学び、平成10年、沢木先生のお奨めで「伊吹嶺」を創刊。創刊20周年を機に主宰を辞しました。その間沢木先生は亡くなられ「風」も終刊となりました。この度のテーマ「追慕と鎮魂」は「私にとっての」追慕と鎮魂と受けとっていただければ幸いです。
先ず父を追慕の句。〈伏字ある父の日記や敗戦忌〉。遺品の一つに伏字の多い軍隊手帳がありました。戦死することを意識していた父は遺書も遺していました。「日本は戦争に負けたのだから終戦忌でなく敗戦忌を使いたい」少し意固地かもしれませんが私はそう思っています。
次に母です。〈寡婦たりし母が好みし額の花〉。母は平成14年6月22日、90歳で亡くなりました。梅雨満月の美しい日でした。父亡き後、母は縫い物や保母として働いて生計を立てました。甘えん坊だった私は〈毛糸編む母にまつはりゐたるかな〉とも詠みました。
次は細見綾子先生です。〈綾子忌や風呂吹大根甘かりし〉。先生がなくなられたのは平成9年9月6日。母親のような存在だった先生の死に、実感が湧かず困りました。先生は料理がお好きでした。泊めていただいたとき朝寝坊した私に味噌汁を温めて下さったこともありました。〈綾子亡し大沼の空雁渡る〉。
平成13年11月5日、沢木欣一先生が亡くなられました。〈師はみまかれり秋冷の十二階〉。入院されていた病院の12階からは富士山がよく見えました。先生とは俳句より家族や読書など日常の話をよくしました。
辺戸岬に沢木先生のみやらび句碑が建立されてから沖縄との絆が深まったこともあり、鎮魂の句として沖縄の句を挙げさせていただきます。
〈甘蔗畑に痛恨の碑や旱梅雨〉。久米島にある痛恨碑は日本軍がスパイ容疑で島民を虐殺したという悲惨な事実を伝えています。〈さわさわと風に青甘蔗嘆き合ふ〉。一面に広がる甘蔗畑には今もさわさわと風が渡り、まるで嘆き合っているように聞こえます。
両先生や両親ばかりでなく亡くなられた方々への追慕と鎮魂の思いが私の句の大きな柱になっているように思います。早くに父を亡くしてますので死者への思いには強いものがあるのかもしれません。
〈師も父母も遠し砂丘に秋の風〉。この句は「先生も両親も遠くなったなあ」との感慨を「秋風」という季語に託しました。「俳句は季語だよ」と沢木先生はよく仰ってました。短いけれど写生がしっかりしていて、季語が効いていれば、作者は語る必要はありません。読み手が読みとってくれるのです。
俳句は先ず感動ありきです。自分の感動を句の中にこめる、それが「心のある俳句」です。心があれば上手下手ではなく、自分の句になります。
俳句に関わって60年。俳句という文芸を通し出逢った方々への思いを詠んできました。これからも自分の心を17字の中にこめて詠み続けていきたいと思っております。
〈靖国の靖はわが名敗戦忌〉。(下里美恵子)
私が俳句を始めたきっかけは、10歳年上の兄・正木浩一の影響によります。兄は30歳のとき、「俳句年鑑」の能村登四郎の作品に触れて一念発起、俳句を始めました。私も、兄の送ってくれた山本健吉の『現代俳句』を読むうちに、兄から1年遅れて俳句を作り始めました。両親も俳句をやっていて、特に父は青島で長谷川素逝の俳誌に投句していたようです。当時母と1日3通位手紙のやり取りをしていたのですが、その中に書いた句を、母に投句されたのが最初かも知れません。
〈サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる〉は、俳句を始めて3カ月位、21歳のときの句。口語俳句で、無理も何もしていない。登四郎に採って頂き、初めて「こんなふうに作ってもいいんだ」と思えた句です。
〈螢火や手首ほそしと摑まれし〉は、中原道夫さんの俳人協会賞授賞式後の3次会位の賑やかな中で、句友に「細いね」と手首を摑まれたのがきっかけ。表現を少し変えれば恋の句に出来る、ということでしょうか。〈かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す〉も本当は大宮公園の豹のこと。句の中で少し嘘をついたりすることもある。
鈴木六林男は「俳句において大切な読者は自分・先生・知らない人」と言ったそうです。先ず「自分」が出てくるのは、俳句は何よりも自分の心に叶う句でありたいということでしょう。自分にだけ分かる句もあっていいと私は思います。〈サヨナラがバンザイに似る花菜道〉は自分のために作った句。兄は49歳で、癌で亡くなりました。最後の3カ月は、熊本の三角で過ごしましたが、見舞の帰りの列車から、兄が遮断機で両手を挙げて、挨拶をしているのに、幸いに気付いた。その時の句です。自分の宝物のような句なんです。〈小さき虹つぎつぎ創り車輪過ぐ〉は「天空の見えない車輪」との評もありましたが、実景です。母と国道の車輪を見ていた時の光景。見たままで、他に分かる人がいない。私と母にしか分からない。でも、母と見ることができて嬉しく思います。〈昧爽の虹なり昏く大いなる〉も実景。江津湖のほとりでの句です。まだ暗いうちにカーテンを開けたら、大きな虹が天空にかかっていた。今こそ「作っておこう」との気持ちが強くなったのは、65歳を過ぎる頃からでしょうか。
一方、皆さんに聞いて頂きたい句もあります。〈降る雪の無量のひとつひとつ見ゆ〉。東日本大震災の、特に原発事故はショックを受けました。何を書いても嘘になるという思いで。私は句会に長年出ていなかったので、追いかけられないと作らない。この時も、那須の常宿に籠って50句作っていた。1年に3、4回雪に閉ざされる所。雪がずっと空の上にある時から目で追っていた。「無量」の雪と思ったんです。兄・両親の死後思い出したのですが、5歳の時に通っていた、地元の人も知らない熊本の日限地蔵尊があります。その水汲みの桶に「無量」と書いてあった。何とむなしいのだろう。「無量」が身にしみる、との思いでしょうか。〈真炎天原子炉に火も苦しむか〉は、計画停電の際、わざと明りを点けないで、一人で初めての闇の中で作りました。太陽の子が人間に閉じ込められ、こき使われ、苦しみが押し寄せる、という感じです。
〈見えずなれば存せぬごとく鷹渡る〉〈乾坤の一切となり鷹去れり〉は、何年も通う白樺峠などの「鷹渡り」の句。見える時はポッと見えるのがポッと消えてしまう。存在しないものが存在し、存在しているのに世界に溶け込み存在しなくなる。人の死と似ている気がします。見に行かなければいられない。空を見つめているだけで幸せです。
たくさん見ること。何年も見ること。今日作れなくても、何かを一生懸命見る。それが大切な気がします。(三栖 隆介)