私の師である中村草田男は虚子の「ホトトギス」で学び、「ホトトギス」から一歩を踏み出した俳人です。
草田男が俳句を始めたのは現実逃避のためでした。昭和3年、草田男は極度の神経衰弱で東京帝国大学独逸文学科を休学。西洋哲学によって神経衰弱を克服しようとしましたが、人生に深く係る哲学は神経に重すぎました。一方、自己流で始めた俳句は大自然の中で心が休まり、病気の回復に役立ちました。そして昭和4年に虚子に入門して大学も復学。東大俳句会に参加し、秋櫻子など先輩の指導で本格的に俳句を始めます。
黄楊の花ふたつ寄りそひ流れくる(昭和4年作)
花鳥諷詠・客観写生を虚子が説いていた全盛期の入選です。時間をかけて川面を観察。写生を学んだ時期といえましょう。しかし「寄りそひ」にはすでに主観が入っているのも注目です。
降る雪や明治は遠くなりにけり(昭和6年作)
昭和6年、国文科に転科。震災を免れた母校の青南小学校を訪ねた際、降り続く雪の中に現れた制服の生徒を見て、明治への懐旧の情が口を衝いて生まれた句です。虚子もこの句を認め、人口に膾炙していく中で、俳句は客観写生だけでなく自分の思いや観念を詠み込めることに草田男自身気付いたのではないでしょうか。俳句の新しい可能性を開いた一句でした。
蟾蜍長子家去る由もなし(昭和7年作)
「蟾蜍」という季語を象徴的に用い、思想性や社会性など見えないものを俳句で意識的に表現して、成功した最初の句だと思います。草田男は徐々にこの方法に深入りしていきます。精神を病んでいた時は自然をそのままに詠む「ホトトギス」の方法が快かったのが、元気になってくると家族や人間の方に興味があることに気付いたのです。西欧文学と同じく、自己表現、自己確認の手段として俳句を作るようになっていくのです。 「ホトトギス」の表現を物足りなく感じ、のちに人間探求派と呼ばれるような句風になったのは、自然の成り行きだったのでしょう。しかし前衛俳句の人々とは違い、草田男は季語を捨てませんでした。
象徴的な詠み方には、具体性と暗示性を満たすものが必要です。「蟾蜍」のような動かざる風貌のものがあるから「長子家去る由もなし」を読者が理解できるのです。季語とは作者と読者をつなぐパイプであり、読者は季語を手掛かりに作者の観念の世界を読み解くことができるのです。前衛俳句からはなぜ季語を捨てないのかと批判され、「ホトトギス」からは季語の冒瀆と言われました。しかし草田男は感動を託すものとして終生季語を手放さず、写生も捨てませんでした。
冬の水一枝の影も欺かず(昭和9年作)
冬の水の厳粛さに、生前の罪が映し出される閻魔大王の浄玻璃の鏡の伝説を想起し、「欺く」の語が口を衝いて出たと言います。写生も季語も捨てず、徹底観察の果てに物と同一化して心に響いたものを詠んでいます。草田男の写生句の代表として知られている句です。
焼跡に遺る三和士や手毬つく(昭和20年作)
私はこの句に魅せられて草田男に就きました。敗戦で焼け野原になった東京で手毬をつく子供の姿。作者の気持が直感的に伝わり、絶望的な日本も立ち直らなければと勇気を貰った句です。見える物と見える物を取り合わせて見えない作者の心を表現する二物衝撃の句です。このような表現が出来る俳句とは素晴らしいと、私は俳句を信じ始めたのです。
落椿詩の解説を繰り返す 秞子(昭和46年作)
高校の国語教師のとき詩の解説をし、分析をすればするほど詩が抜け殻になる虚しさがありました。落椿を見た時、閃くように出来た句です。草田男の特選に入り、象徴的方法とはこういうものかと開眼した私の記念の一句です。(市村 栄理)
抒情とは「情」を「抒」べることだが、句作に当たっては幾つかの注意が必要。(1)観念的にではなく、具象を通して感情を抒べる。(2)弛緩した状態ではなく、緊張感の中で抒べる。(3)極力「智」や「理屈」を抑え、「情」を直截に打ち出す。(4)情を抒べる主体はあくまで「私」。「私たち」になるとスローガンや標語になる。(5)その「情」は狭くて小さな小主観的なものではなくもっと大きく広いものである。
以下、具体的に林火作品を見ていく。
燈籠にしばらくのこる匂ひかな(昭和7年作)
林火は相継いで妻子を亡くした悲しみ、苦しみを俳句にすることによって心の落着きを求め得た。燈籠を消した後に漂う蠟の匂いが切ない。
白き巨船きたれり春も遠からず(昭和10年作)
「春も遠からず」には季節の春だけではなく「心の春」も感じられ、何か希望のようなものも感じられる。
甘藷植ゑて島人灼くる雲にめげず(昭和11年作)
八丈島での作。妻子に続いて父を亡くし、悲しく辛い日が続いたが、八丈島への旅を契機に林火は元気を取り戻した。「灼くる雲にめげず」は林火の気持ちでもある。
あをあをと空を残して蝶別れ(昭和16年作)
林火の耽美的傾向を代表する句。この頃から林火は俳句は抒情だと言っている。
焼跡にかりがねの空懸りけり(昭和21年作)
横浜大空襲の翌年21年に「濱」を創刊。「かりがねの空懸りけり」が抒情俳人らしい表現である。
ねむりても旅の花火の胸にひらく(昭和22年作)
旅先で戦後初めて花火を見た時の感慨。
つなぎやれば馬も冬木のしづけさに(昭和23年作)
私が大野林火に師事するきっかけになった句。田中汀京は「抒情の高邁さに於いて既に遠く昔日の比ではない」と書評で書いている。
雪の水車ごつとんことりもう止むか(昭和31年作)
バスの窓から見た水車が印象深く、宿に着いてからこの句が出来た。ここには林火の作句工房が垣間見える。実際に見た物を踏まえてイメージを築きあげている。 花合歓に夕日旅人はとどまらず(昭和38年作)
夕日に映える美しい合歓の花を見ながら、旅人は立ち止まることなく歩き続ける。林火の抒情精神を見事に示す。
鴨群るるさみしき鴨をまた加へ(昭和42年作)
「さみしき鴨をまた加へ」と言ったところが眼目。「私もこの鴨と同じくつねに誰かといたい 賑やか好きの淋しがりやといわれても仕方がない」と自註。林火の一面である。
風の盆行くさき知らね流しに蹤く(昭和45年作)
行く先も分からぬまま踊り手たちについて行くと言ったところに旅情が漂い、行事への感慨がにじむ。この頃から林火は日本各地の年中行事や花の名所を訪ね始めている。
老いらくのはるばる流し雛に逢ふ(昭和46年作)
加太淡島神社の流し雛を見に行った時の句。「老いらくの」と言い、「逢ふ」と言ったところが林火らしい。
あまご群れ卯月八日の日に浴す(昭和46年作)
物や事を通して自らの感激・感慨を俳句にするという句作態度を如実に示す。まさに卯月八日のその日に花背に来た喜びと臨場感が窺える。
いのち長きより全きをねがふ寒(昭和54年作)
長生きはしたいが、ただだらだらと長生きするのではつまらない。「長きより全きをねがふ」と端的に言ったところに林火の心念が窺える。
萩明り師のふところにゐるごとし(昭和57年作)
林火の辞世吟3句の内の1句。「萩」は先師臼田亞浪の家から根分けしてきた萩である。林火は死ぬ間際まで亞浪のことを思っていた。人の絆を大事にする俳人であった。(井上 進)
俳句は短いがゆえに大勢の人に愛誦され復誦される、それが俳句の力だと思います。その点、諺と似ています。
また、俳句は季語を持つことで自然や宇宙の大きさを取り込むことが出来ます。
〈虚子一人銀河と共に西へ行く〉で、虚子は「宇宙は大、我は小。宇宙は複雑、我は孤独。若かじ銀河と共に西へ行かん」と言っており、銀河という大きな世界を句に詠んでいます。
〈何もかも知つてをるなり竈猫〉で風生は竈猫の本意を詠み、新しい季語を生み出しました。同様に〈赤富士に露滂沱たる四辺かな〉の句で「赤富士」という新季語も生みました。
風生の3句〈木深くてこの紫陽花は白く咲く〉〈七彩の四葩の鞠を積み重ね〉〈園荒れて藪にまぎるる七変化〉は「紫陽花」と書くときには色が見え、「四葩」と書くときには形が見え、「七変化」と書くときには色の変わってゆくさまが見えます。同じ季語でもそれぞれの言葉が持っているイメージを生かさなければなりません。
芭蕉の〈夏草や兵どもが夢の跡〉は『おくのほそ道』の有名な句ですが、「夏草」で兵の逞しさと儚さ、自然の生命力を表しています。
敏郎の〈石蕗咲くや心魅かるる人とゐて〉は、「心魅かるる人」と言いつつも石蕗の花の本意を詠んだ作品です。
〈歩をゆるめつつ秋風の中にあり〉は「折口信夫逝去」の前書きがあります。敏郎は恩師を失った悲しみや淋しさを口にしないで、すべての思いを秋風の季語に託しています。
次に「調べ」について述べます。音に繊細な感覚を持っていた芭蕉は故郷の伊賀上野で〈無精さや抱き起こさるる春の雨〉という句を詠んでいます。しかし『猿簑』に載せる際、〈無精さや〓き起こされし春の雨〉と直しました。
「抱き起こす」は文字通り抱いて起こす意ですが、「搔き起こす」は手を使って起こすの意で、『源氏物語』にも出てくる雅びな言葉です。
表現の違いで人物像が素朴な女性から上品な女性に変わってくるのですが、同時に調べも澄んだ調べに変えています。
調べには色々な調子があります。虚子が〈凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり〉の句を五七五のリズムにしなかったのは、去来の墓の小ささに驚き、それを大仰に表すために字余りで詠んだのです。
一方風生の〈きりしまや葉一つなき真盛り〉の句は中7が字足らずです。本来なら「葉の一つなき」と詠むところです。霧島躑躅は葉が出る前に花がびっしりつきます。その緊密な咲きざまを表すために字足らずにしたのです。
〈まさをなる空よりしだれざくらかな〉で詠まれた桜は、地元では伏姫桜と呼ばれ400年経った古木です。枝垂桜が天から地へと流れるように垂れているさまを表すために、途中どこにも切れを設けずに詠んでいます。また、17音の内にア音が9つもあり、明るくしなやかに仕上がっています。
加倉井秋をの〈二科を見る石段は斜めに登る〉は口語調で詠まれています。
正統派の展覧会なら正面から登るのでしょうが、二科展は前衛的な作品が多いので、斜めに登ると表現したのでしょう。軽快な口語の調べが生かされています。
このように口語を生かすことも出来ますが、私は俳句は総じて文語の表現の方が荘重さや奥深さが表現出来、幅が広いと思っています。
俳句は世界でもっとも短い詩です。ですから、季語を十二分に生かす必要があります。また、調べが整っていれば、時代を超えて多くの人々に愛誦されます。反復口誦されることが、俳句の力だと思います。(福神 規子)
水原秋櫻子についてお話するにあたり、私の祖父としてではなく、つとめて客観的に俳人秋櫻子について語りたい。
今回の講演は大きく分けて三つの内容になろうかと思う。
先ず最初に、秋櫻子の美学が生まれた必然的な要因と、その経緯に触れておきたい。
神田っ子だった秋櫻子だが、人見知りする淋しい少年時代だった。中学のとき、母が結核となり2階で養生するその枕元で母と共に本を読むことが母への思いの表し方であった。
父は医者になることを厳命し2浪の末、主席で東大医学部に入学した。在学中より新聞欄の窪田空穂の短歌に親しみ「歌は調べなり、抒情によって心情を伝える」主義に共鳴し投歌を重ねていた。空穂も秋櫻子を太くて直線的、透明な輝きをもっていると評した。
一方で俳句にも親しみ、ホトトギスに拠った。後に短歌を選ぶか、俳句を選ぶかと迷ったとき、なぜか俳句の方を選んだ。しかし秋櫻子は空穂が亡くなるまで師と仰ぎ、調べについての疑問は何でも質問、相談出来る存在だったという。
秋櫻子は昭和6年馬醉木誌上に「自然の真と文芸上の真」という一文をもって大ホトトギスを離れた。
この文意は、一つの花があるとその花が何枚の花弁をもち、芯がどうなっているかということを描くより、作者にとってその花がどう見えたかということを問題にしたものである。
秋櫻子は美しいもの、美への現象に献身を貫いていた。そこには近代的抒情の導入と、調べの重視がある。自然を学びつつ、なおも自己の心に愛着を持つ態度。これが秋櫻子の揺るぎない姿勢であった。
「文芸上の真」とは、自然の美が作者の頭の溶鉱炉の中で溶解され、鍛錬され、加工されて出来上がったものを指すのであって、そこが客観写生を唱導していた虚子に添えなかったものと思われる。客観に主観を交え、気持ちを込めて句を詠むことなどは、今では当たり前のようだが、大正の終わりから昭和の始めには新鮮だった。
一方虚子は、大結社をまとめ上げてゆくには、懐が深く清濁併せ飲む必要があった。そんな虚子に対して、秋櫻子は「濁を飲むくらいなら大をなさざるもよし」と応えたという。このとき秋櫻子は38歳だった。
後に山本憲吉は、寒色を避け暖色の世界、しかも永遠なるものへの憧憬の深い秋櫻子に対して「きれい寂」と評した。
2番目には、秋櫻子が目指したテーマ性を持つ俳句への試みについて話したい。
連作俳句、万葉言葉の採用、母韻・子韻の響きによる調べの効果などである。
連作俳句。これは俳句を新しくしたいという意欲の試みであった。中でも、千葉県の波太での向日葵の連作では、実際に向日葵があったのではなく、この島の景の中には向日葵があって然るべし、との美学をもとに作られた。今では向日葵を詠んだ10句の中で〈向日葵の空かがやけり波の群〉が知られているが、この1句のために10句詠んだのかも知れない。
連作俳句の試みは、昭和8年に始まり12年に終わっている。
3番目は秋櫻子と深く関わった人々に触れたい。窪田空穂、高浜虚子、石田波郷などは改めて話すまでもないが、日本画家であり歴史画を能くされた安田靫彦は外せないだろう。
秋櫻子は自分自身でも絵を描いたが、川端龍子・奥村土牛・小倉遊亀・安井曾太郎・梅原龍三郎・小絲源太郎ら多くの画家との交誼も厚かった。中でも、安田靫彦の芸術に永遠の輝きを見出し、美しいものへの憧れを貫く真摯な姿に大いに共感されたのである。(西村梛子)