昨日、とある公開句会に出席した。そこでは季語・定型などの突っ込んだ議論がなされた。
私などは中七の字余りや、季語一つを絶対視しない考え方だから、その持論を言うと猛反発を食らった。
でも、こんなとき、私の先生の加藤楸邨はどうだったか...って頭の隅で思ってしまう。つまり信念の拠り処は師系なのだ。
若いとき、私は山口誓子に憧れ、涙して誓子の句を読んだ。しかし当時の私には、誓子が余りにも高く見えたこともあり、結局楸邨を師とした。
今日は鷹羽狩行氏の第一句集『誕生』について語るつもりだが、誓子はどうだったか、楸邨門からみたらどうか...などにも触れてみたい。
私が高校生の頃作っていた俳句は、芭蕉や蕪村の世界の題材にタイムマシンに乗って立ち戻ったような「わび・さび」の表現に満足していた。ところがそんな俳句が、誓子の句を見て全く違っていることを発見した。
「今の物事を目で見て詠めばよいのだ」と気づかされたのである。これは実は、驚天動地だった。同時に、いかにも俳句的情緒に固まった古いモノを詠むことが、現代に生きる我々の詠むべき俳句ではないという自制に至った。
皆さんのお手元にお配りした資料にも、古い情緒に固まってしまう虞れのある句材...廃村・廃寺・走り根など、若干のリストアップを試みた。このことは誓子が俳句での詠嘆・諷詠を嫌悪した結果とも〓がっている。
通例、詠嘆を表すとき、切字の「や」「かな」「けり」を使うことが多い。ところが誓子の『激浪』1254句中「や」は54句あるものの「かな」は全く使われていない。驚異的だ。
狩行の『誕生』も同じ傾向があり、「かな」は1句「けり」は3句であった。
だが、誓子は古いものを全否定したのではない。「季語」と「モノを写す」という信念を守り、新興俳句の世界には行かなかった。その典型は〈球なくて電柱立てり海しぐれ〉であり、それを継いだものが狩行の〈畦を違へて虹の根に行けざりし〉であろう。「畦」と「虹」のようなモノや句材があって、それを人が智でもって構成するいわゆる「写生構成」である。
私事で恐縮だが、あるとき私は狩行氏に「誓子は自分には越えられない山のように見えた。もし誓子門に入っていたなら、自分はミイラになってしまいそうなので、反対の流れの楸邨門下に入った」と告白した。
すると狩行氏は「自分はミイラとりがミイラになってもいいと思って誓子に決めた」と教えてくれたのである。
狩行氏の数々の名句の中で、誓子の影響を受けたと思われる作品は少なくない。逆に、誓子に無くて狩行にあるものにも触れておきたい。
それは「情愛」の濃やかさ、「家族愛」の深さ、「ユーモア」の温かさであろう。以下、狩行作品を数句挙げて見よう。
〈積雪を踏み来て燈火けがらはし〉
〈蛍籠置きてぎつしり畳の目〉
燈火を「けがらはし」と感じた心や、情緒ある「蛍籠」から「畳の目」を配するなどなかなか言えるものではない。
〈夜焚火や農夫の鼻肉照らし出す〉
普通なら「鼻」で終わるところを「肉」とまで言ったのが凄い。そして「写生構成」の典型として、先述の句を挙げておく。
〈畦を違へて虹の根に行けざりし〉
配付資料/鷹羽狩行の第1句集『誕生』(444句)からの抄録53句。山口誓子『激浪』(実に1254句)からの抄録51句。 (栗林 浩)
私は岡本眸さんとは接点はないが、愛誦句は多く、また私の師匠の綾部仁喜と同世代でもあり親近感を抱いている。
今日は岡本眸作品を探りながら、「俳句は日記」であることを貫いた眸作品の根源にあるものは何かを見極めたい。
岡本眸の綿密な年譜を辿っていくと、作家としての歩みが見えてくる。
昭和24年21歳、(株)日東硫曹本社に社長秘書として勤務。富安風生指導の職場句会を手伝ったことが岡本眸が俳句の道に関わる切っ掛けとなった。
昭和31年28歳、「若葉」に投句。当時の「若葉」の作家層は20代から40代が主流をなし、投句者1380名中女性は215名。こういう状況の中で岡本眸の俳句生活は始まった。
昭和33年30歳、「春嶺」入会、翌年春嶺賞受賞。昭和36年33歳、若葉賞受賞。昭和46年43歳、第一句集『朝』刊行、翌年第11回俳人協会賞受賞。見事な才能の開花である。
年譜から見えてくるものに、戦争の体験、兄の戦死、父母の死、子宮癌の手術がある。戦争、子宮癌という病魔との闘い、岡本眸には、それらを通して死の淵を垣間見てきた人だけに見える「生の世界」があった。だからこそ、日々の営みである「暮し」を丁寧に紡いできた。これは師風生から教えられた「生活を大事にしながら句を作る喜びを知る」の言葉を常に心においてきた作句態度でもあり、もう一人の師岸風三樓の「俳句は履歴書」の言葉が核にある。眸の言葉「俳句は日記である」はこの二人の師恩が心底にあっての言葉である。
句集『朝』には「愛」の句が多い。
(1)「愛」の言葉を用いてストレートに詠む。
〈夫愛すはうれん草の紅愛す〉 〈愛されて淡雪の土手誰も行かぬ〉。
「夫愛すは...」は昭和41年「若葉」7月号雑詠巻頭時の作品。後で述べるが、これは岡本眸の俳句人生を決定づけた句と言える。
(2)家族を詠む
〈兄の忌の兄来るごとく霧降るよ〉〈落葉の墓地に時計合せて兄いもと〉。家族の愛に育まれてきた人の目がある。字余りの句は、定型におさめきれない思いがあってのこと。
(3)自分自身を詠む
〈霧冷や秘書のつとめに鍵多く〉の秘書という仕事の孤独感。〈雁仰ぎ畢竟旅はひとりのもの〉。自分自身を詠んだ句には「ひとりごころ」がある。
(4)生活および自然諷詠
〈持ち代へて風鈴の鳴る跨線橋〉。何気ない表現だが言葉の連携が見事に均衡をたもち、涼やかな風鈴の音色がひびく。
後年〈目の前の些事こそ大事日照草〉と詠んだことからも分かるが、日常の些事に詩を見出だした眸の姿勢は大いに学んでいきたい。
結論としては「岡本眸の愛」は「自愛」である。「自愛」とは「その身を大切にすること、ものを大切にすること」。眸作品は戦争、病など、幾度も死を覚悟した人の「自愛」であることを心において味わうべきである。
昭和42年の「春嶺」の記念大会の講演で推敲に関して「作品と話し合いながら、自分の血の通った言葉で作品との溝を埋めてゆく...」と述べている。岡本眸の句が魅力的なのはその言葉が眸の身体を通り抜けてきた等身大の言葉であるからである。
眸の言葉には体温がある。だから「愛」という言葉を用いても甘くならない、心地よさがある。
初期の句に〈夫愛すはうれん草の紅愛す〉があることは岡本眸の俳句人生を暗示している。「はうれん草の紅」はつまり俳句そのもの。夫を愛するようにまた俳句を愛する。何気なく唄うようにできたというこの一句に言霊の凄みを感じる。自身では「戦争の申し子」と言っておられるが、「先生は俳句の申し子です」とお伝えしたい。
(松岡 隆子)
第一句集には作者の実人生が色濃く反映されている場合が多い。作者その人を知ることは句を理解する一助となると思えるので、まずは第一句集『黄炎』が刊行されるまでの七菜子の人生を概観してみたい。
七菜子は大正12年、大阪で格式ある上方舞楳茂都流を継ぐ家に生まれたが、生後わずか4カ月で両親の元を離され、二代目家元である祖父に引き取られた。その後相次いで祖父や兄弟を亡くし、祖母との二人暮らしとなった。
女学校に入学すると与謝野晶子の『みだれ髪』などを読み短歌に傾倒するが、生前俳句を嗜んでいた祖父や教師の影響で俳句を作るようになった。多感なこの時期に両親が離婚、さらに肋膜炎、肺浸潤を患い、七菜子は長期療養を余儀なくされた。
19歳の時に秋櫻子の俳句に惹かれて「馬醉木」に投句をはじめた。この頃になると戦局が悪化、女子挺身隊員として軍需工場に勤務したが、七菜子は激しい空襲を生き延びた。
戦後は家を売り、道具を売り尽くしても生活は困窮を極めたが、祖母は七菜子が働きに出ることを許さなかった。
三代目家元である父の娘として家を継ぎ、舞を生涯の仕事にとの七菜子の固い決心は、複雑な家庭の事情によって果たせなかった。しかし「生きるということは何か生まれる前から自分に与えられている仕事をやり通すことだ」との信念から、七菜子は叶わなかった夢を俳句に託そうと決意する。この頃、事情により遠縁の男性との婚約が破談となった。それ以前、戦時中に交際した男性とも結ばれることはなかった。
28歳の時に、「馬醉木」同人の山口草堂が主宰する「南風」に入会したものの、祖母の理解が得られず句会への参加は叶わなかった。潰えた夢、祖母との確執、生活の困窮から絶望に陥り、睡眠薬自殺を図るが奇跡的に一命を取り留めた。その自殺未遂を機に職に就くこと、句会への参加を漸く祖母は承諾した。句会で直接草堂に接し、俳句への情熱に打たれて生涯の師とすることを決意。32歳の時に祖母が死去。自分には俳句しかないと思い定める。
「馬醉木」に入会して15年、ついに七菜子は同人となる。この頃から「南風」の編集・発行事務などにも携わる。さらに新設された婦人投句欄の選に当たり、俳人としての順調な日々が始まったかのように思えたが、肺結核に罹患し自宅療養を余儀なくされる。40歳、長い苦難の道を経てようやく第一句集『黄炎』が刊行された。
『黄炎』には叙景句が少なく、己を中心に置いて詠む作風は当時としては異色であった。何れも悲恋に終わったためか、恋の句にも「十六夜」 「枯野」な
どの季語が斡旋されており、その言語感覚の鋭さ、調べに現れる美意識は草堂をして跋に「七菜子俳句には初学時代がない」と書かしめたほどであった。
上方舞の世界で身を以て型の重要性を知った七菜子は、俳句もまた型の文芸であることを直感し、早くから「馬醉木」という厳しい結社において秋櫻子という優れた指導者に学んだことで、俳句の骨格を確かなものとしたのである。
草堂は「見えないものが見えるようにならなくてはだめだ」と繰り返し説いたが、『黄炎』
のあとがきで七菜子は「すべてのものは虚無の海に漂う花びらのような儚さをもっている(中略)私はこれから、その儚さゆえの美しさを、知性と感性の両面からレンズをあてて捉えてゆきたいと希っている」とし、第二句集への課題を提示した。
「見えないもの」を「見えるように」せよ、との師からの厳しい要求に応えようと一途に俳句と向き合うことは、まさに七菜子の生きる証であり、その求道者のような姿勢は俳人として生きる覚悟そのものだったのである。(網倉 明子)
相生垣瓜人の作品は「仙境」の言葉で表されるように、「俳諧の伝統的哲学である禅的達観を殆ど奔放に近い自由さで表現した」ところに真髄がある。
孤高の俳人とも称されたが、世の中の事象や自然に無欲の心で接し、深い思索や洞察の中に時にユーモアや風刺を交え、俗気のない洒脱な人間性をしのばせる独自の作風を作り上げた。
生誕地高砂(現、高砂市)は、江戸期より米の集散地として栄え、教育・文化の高い町であった。生家の近くには、学問所・申義堂があり、庶民の子弟が朱子学や漢籍を素読、会読、輪読をして学んだ。耳口を通った漢籍の言葉がのちの瓜人の句の骨格になったといえよう。遊び場として氏子として、瓜人がよく通ったであろう高砂神社には、瑞牆に和歌が彫られ、日常的に和歌が親しい町であった。
第一句集の『微茫集』は、著者が教壇を離れた昭和30年に刊行された。昭和5年より16年までを「黄茅抄」(91句)、戦後の23年から29年までを「白葦抄」(343句)と二分して収める。二つの抄の間には自筆の胡瓜の図と自賛および栗の図と自賛を挟んでいる。画のタッチは瓜人が尊敬する画僧・八大山人に近いのではないか。
集名『微茫集』は石田波郷が決定したとされているが、その提案は瓜人と推定される。
瓜人の師の水原秋櫻子が外光派と呼ばれるのに対し、かすかでさだかでないことを意味する微茫が集名であることは、師とは別の途を歩こうとする瓜人の強い意志が感じられる。
瓜人は昭和8年に馬醉木第一期自選同人に選ばれ、水原秋櫻子の期待する弟子の一人であったが、戦時中の6年間は作品活動を断っている。その間の沈黙が作者の精神を鍛え、のちに俳句の中で東洋的諦観の境地を示し、瓜人仙境と称される脱俗の独自の作風を作り上げた。
自ら述べるように、瓜人の俳句は「馬醉木」の多くの写生俳句や風景俳句とはやや違うものの、美術教師であったことが物を見る骨格を形成し、漢籍に対する豊富な知識が飄逸味のある仙境と称される表現世界を作り上げた。
「黄茅抄」の時代は明るく、健康的であり、八ヶ岳や北アルプス縦走を始め、著名な山で足跡を留めぬ所はないといわれた健脚時代の力強さが籠められた作品群である。
ゴッホの影響を受け、〈向日葵と鬪ふ如く描くなる〉〈向日葵や畫布打つ筆の音荒く〉などの作品があり、向日葵の句だけの小さな句帖を作っている。「黄茅抄」は断筆の前の作品であるが、若き日の愛着ゆえに残されたものであろう。
一方「白葦抄」の作品は、色彩や明るさが退いた句柄である。〈古書を見て椿を見るに生々し〉瓜人は古書好きであり、古書から眼を移すと初めはその瑞々しさに驚くがその生々しさに辟易するという。〈稀書あれな春寒帖といはずして〉「春寒帖」は新年の会席の句を集めて刷った春興帖のもじり。人一倍寒さ嫌いの瓜人が「春寒帖」という名でない稀書が欲しいという。
瓜人は同じ画人として、八大山人の画に興味を引かれた。明を征服した清王朝には仕えず、僧となり、時に絵筆を執った画僧の中で、特筆される画風を示した八大山人と石濤に強く共感した。〈寒林に來て佯りし狂を解く〉などの八大山人・5句、〈石濤を遠き冬木の隱すなし〉などの石濤・4句があり、各々朝鮮戦争中と終戦直後の作品である。
瓜人は出征こそしなかったが、教え子の多くを戦場に送り、自ら筆を断ち、仮寓住まいと戦争の影響を受けた人生を送っている。八大山人や石濤は王朝交替の戦いでそれまでの人生を諦めなければならなかった。画のみならざる共感がそこにあるのではないか。戦で人生を狂わされ断筆した6年間は、その後の瓜人にとって一番大切なものであったに違いない。(峯岸 一茂)