春季俳句講座春季俳句講座

第1句集を読む 師系を超えて(2)

【俳句文学館 2018年(平成30年)7月5日号】

岡本松濱『白菊』
「松濱俳句の輝き」――小澤 實

ozawa.jpg 岡本松濱は明治12年大阪に生まれた。子規のち碧梧桐を選者とした「日本俳句」に投句。子規没後は「ホトトギス」に投句した。虚子に認められ、東京で「ホトトギス」の会計、編集を任せられるも失態により解任される。大阪に帰郷後、大正15年主宰誌「寒菊」創刊。昭和14年61歳で没した。『白菊』は昭和16年刊。生前に句集を持ちえなかった松濱のために、弟子である下村槐太が「寒菊」から採録、自ら謄写印刷、装丁製本した一冊なのである。今回、同じく槐太の手になる、再版本昭和27年刊の存在を報告した。
 松濱に興味を抱いたのは、関心を抱いてきた久保田万太郎の直接の師であったからである。万太郎は松濱について句集『道芝』の跋で「かれの巧緻をつくした戯曲的な小説的な人事句についてまなぶところが多かつた」と書いている。加えて、「ホトトギス」での使い込みという失態が招いた不幸な身上にも惹かれた。刊行した「寒菊」も、わずか7年間で終刊に追い込まれてしまうのである。
 松濱俳句の多くは人事句である。対象は女性、夫婦、働く人、子供、我など多岐にわたる。ことに遊廓での遊興の句が目を引く。これは実体験ばかりでなく、近松の浄瑠璃の世界、江戸文化への憧れからもつくられていよう。〈色里に人行く上の舂の月〉〈短夜の蛾が死んで居り盃洗に〉〈煤を掃く青楼昼の焚火かな〉。日常の遊郭が詠まれることは希少であり、近代俳句においては特異な句だと言える。このことから、江戸時代に遊郭に住み、遊女を多く句材とした炭太祇に喩えられた。
 他に注目すべきは〈形代や机のはしに忘らるゝ〉〈ががんぼを吹けば飛ぶなり形代も〉〈形代の紙も粗末とりにけり〉という句群である。ここには、秋櫻子、誓子ら連作俳句の先駆となる新しい意識があったことが読み取れる。また〈思ふ事ならず紫陽花咲きうすれ〉に見られる、強い思いと描写とを並べる俳句は、波郷や草田男等人間探求派の取り合せの先蹤になったとも考えられるのである。
 さらに、〈燦然とトランプひろげ避暑の宿〉〈苺クリーム唯甘かりし淋しさよ〉といった新しみのある句の存在もつけ加えておきたい。前者を誓子の何、後者を現代若手俳人の何と言ってもいいような新しい感覚があって、あらためで驚かされる。
 ところで、万太郎の句にはしばしば無内容の美しさというものが現れる。たとえば、〈短夜のあけゆく水の匂かな〉などの句に見られる空間表現である。それこそが近代俳句最高の美であると考えているが、その原点は松濱句にあるという気がしている。例えば「寒菊」廃刊のときの句とされる〈露けさの一つの灯さへ消えにけり〉、空間認識の深さを伺わせる〈春雪やうす日さし来る傘の内〉などは無内容句として万太郎へ連なるのではないか。松濱句の最高の価値はこのことにあると思う。
 さて、松濱のすばらしさは自身の作品もさることながら、門下に大きな存在の俳人をのこしたことである。〈牡蠣船にもちこむわかればなしかな 久保田万太郎〉〈菖蒲見に淋しき夫婦行きにけり 野村喜舟〉〈死にたれば人来て大根煮きはじむ下村槐太〉。門下3人の句を並べてみると、松濱白身の句と言われても頷けるほどであり、その影響の大きさが見てとれる。
 近代俳句の中心は何といっても高浜虚子。虚子は毎日ホトトギス発行所に通うサラリーマン的存在だった。近代はいわばサラリーマン俳句の時代と言ってもいいかもしれない。その中で大失策をした松濱は、社会からはずれたアウトローだった。しかしだからこそ人を優しく見ることができたのではないか。遊郭、遊女といった題材を始め魅力的な人事句を残すことができたのではないだろうか。(冬魚)

堀井舂一郎『教師』
「〈誓子一辺倒〉を経て」――行方 克巳

namekata.jpg 堀井舂一郎は、昭和2(1927)年、東京麻布の教育界の名家に生まれた。昭和26(1951)年、慶應義塾大学文学部哲学科を卒業し、三重県立尾鷲高校に奉職、後に杉野女子短期大学教授。昭和51(1976)年5月15日死去、49歳。「天狼」同人、後に秋元不死男らの「氷海」に参加。「季刊俳句」発行。句集に『教師』『修羅』『曵白』がある。講演の日はたまたま彼の命日に当たる。
 第1句集『教師』は、舂一郎31歳の昭和33(1958)年刊。300部。約600句中、約6分の1に教師という語が用いられている。慶應義塾大学に残ることを約束されていながら、遠く三重県の尾鷲高校の教師になったのは、当時伊勢富田で療養中たった傾倒する師山口誓子の少しでも近くにいたいと願ったからであった。〈地の果に誓子狂あり蟹とゐて〉〈枯野来し油煙に汚れ着任す〉〈小説の教師となれり野火の頃〉。
 世に誓子狂を自認する人は多いが、自らの生涯を賭して近くまで追って行ったのは舂一郎だけであり、それは誓子の本名新比古にちなんで長男に舂比古と名付けたことにも表れていよう。子どもを詠んだ〈寒暮光子を抱く教師より発す〉〈三月の星と睦みて独り子よ〉などの名吟がある。
 しかし〈凍蝶のやがて石とも別れねば〉など、早くから後の誓子との訣別を予感したような句を詠んでもいる。病を得で2年後には帰京した。一方、死ぬまで多くの女性遍歴を重ね、独自の情痴俳句を多く作った。
 昭和31(1956)年、天狼賞受賞。その頃、寺山修司と共に俳句時評を担当していた「俳句研究」に、「天狼への懐疑」という一文を発表、誓子作の〈冬の美術館日通黄のトラック〉〈海岸日傘倒れてすぐに柄が上向く〉などをあげて、「誓子は、何か錯誤を犯しているのではないか」と批判した。が、その後の『教師』の出版に際してては、その批判の対象とした誓子に序文を乞うてもいる。
 その序文で誓子は、〈野に赭らむ冬雲誰の晩年ぞ〉をあげ、「この作品で堀井氏は私を卒業した。私から学ぶことを終わった」と書いたが、自分から離れても他の天狼作家には学ぶべきである由も述べている。自分をあけすけに批判した舂一郎の句集にこのような序文を与えた誓子の大きさが感じられる。
 平畑静塔・西東三鬼・永田耕衣・鷹羽狩行など多くの俊秀が誓子を師と仰ぎ、誓子山脈と呼ばれる。その中の一人、鷹羽狩行の第1句集昭和40(1965)年刊『誕生』に対しても誓子は序文を与えている。わずか3才しか年が違わず、狩行の入門の方が早いにもかかわらず、鷹羽君と呼び、堀井氏と書いた『教師』の序文と比べると、かなりの感情の温度差があると思われるのは、先の一文の発表を考えれば致し方のないことだろう。
 誓子は、舂一郎にとっては磁場のような存在であり、その桎梏から脱したことで、舂一郎らしい俳句が産まれた。のちに〈枯木折る誓子一辺倒を経て〉と詠んでいる。
 春一郎は、自分の俳句を「マイナス」であるとし、いつかプラスに転化する時があれば、師誓子も不肖の弟子たる自分を諒とするだろうと述べた。一方、狩行の俳句は「プフス」で、それを貫くべきだとする。狩行の今日を予言したかのようだ。
 『教師』より。冒頭の句〈冬海へ石蹴り落し死なず帰る〉。蟹や蟇に作者を仮託した〈蟹かたく交めり陸も果にして〉〈地の果に紅蟹死すを誰か知る〉〈夜の豪雨蟇も教師も忘却へ〉〈赤き月樹下の一塊動けば蟇〉生前会った春一郎は、蟇のイメージを持つ人だった。〈青葡萄沈黙もまた渇きけり〉は〈野に赭らむ~〉と共に集中の名吟。
 誓子山脈の奇峰として堀井春一郎は、忘れられない存在である。(帶屋 七緒)

清崎敏郎『安房上総』
「〈静謐の詩〉の微光」――ながさく 清江

nagasaku.jpg 清崎敏郎の『安房上総』は昭和15年作者18歳から同28年までの13年間の330句をまとめたものである。丁度この時代から、敏郎の同級生たち俳句の仲間が私の実家、富士山麓の家に泊まりっがけで来、句会を共にした。その頃から作者が仲間から「敏郎(びんろう)大人(うし)」と呼ばれて話題にされていたのは、結核性の股関節炎を病み、松葉杖のゆったりした物腰であったことに加え、寡黙だが言うべきことははっきり言い、その風格ゆえに若い頃から尊敬されていたのだと思う。
 昭和15年風生に見え「若葉」に投句、3年後「ホトトギス」に投句し虚子に師事。またその翌年慶応大学文学部国文学科に進学すると折口信夫に民俗学を学び生涯の師と慕ったが、昭和28年その師の急逝により深い消失感を味わい、何かしないではいたたまれない心の興奮状態や俳句への愛情が湧き、翌年上梓したのがこの句集である。
 句集名は卒業の折、折口師より賜わった歌の一節より名付けた。風生は、時の流行に右顧左眄せず超然として惑わない作者の聡明さに注目し、静謐の詩の上に柔らかく対象を包む仄あたたかい微光、それは作者のヒューマニズムであると述べている。  そこで句集の中から「静謐の詩の微光」の感じられる句を鑑賞したい。
○昭和16年〈梅が散るほうれん草の畑かな〉について風生は簡素の美、充実感、色彩の美、ういういしさなどを挙げ、この童心は宝石の如く尊いと言っており、ほうれん草の濃い緑に散りかかる梅の景には静かな微光が注いでいたと思われる。
○昭和19年〈麦を焼く日中の焔あげにけり〉は当時健康な者は皆戦争に駆り出された。しかし松葉杖の作者は戦争にも行けず蒸し暑い無風の日中に佇み、焔に己が命を重ね合わせじっと見つめていた。その抑制された情熱が一句を生んだ。
○同年作〈灯りたる灯のみづゝし雪の田居〉も単なる写生句ではない。空襲警報が鳴れば明りを消さわははらなかった戦時下にあって、外に漏れた電気の灯りが雪の田に注いだその瑞々しさに殊更実感が伴っている。
○昭和22年作〈夏山に向ひ吸ひ寄せられんとす〉は虚子の元に新人会が発足し、疎開中の師を小諸に訪ねた折の作品である。夏山は浅間山であろうが、同時に懐の深い虚子の存在がオーバーラップしている。
○昭和21年〈舂燈の衣桁に何も無かりけり〉は久保田万太郎を擁して安住敦が「舂燈」を発刊した際の発行記念句会での作品だが、今まで掛かっていたであろうきらびやかな着物、あるいはこれから掛かるであろう着物、それを着る人の肌の匂いさえしてきそうな艶めきがある。想像力を刺激するこのような作品が敗戦の翌年に発表されたことに驚き、その静謐な詩に感動する。
○〈雪の戸をほそゝとあけ商へり〉〈風花に馬を繋ぎで旅籠なる〉等民俗採集の旅で得られた作品によって、作者の作品には風土への愛着、そこに暮らす人への思いやりが増し、さらに幅の広い世界が花鳥諷詠という手法で深まっていった。
○昭和25年〈かなゝのかなゝとなく夕かな〉一度聞くとすとんと胸に落ちて口を衝いて出て来る作品。このリフレインも作者の特徴の一つである。 ○〈枯萱の山が即ち舂の山〉〈山村け桑の芽吹きに幟立つ〉一つの季節に次の季節が重なる「あわい」を捉えて妙。作者は季の移ろいの微妙さに潜む「もののいのち」の確かさを知っていた。
 作者は、若い頃から病気に耐え、それを乗り越えることで培われた抑制された情熱、ぶれることのない信念、他人に対するあたたかなお人柄で病気というマイナスに人生のプラスを見い出し、俳句は人生の救いであると体験から確信を持ち、花鳥諷詠、客観写生の俳句を貫き通した。(福神 規子)

能村登四郎『咀嚼音』
「登四郎人間詠の原点」――小島 健

kojima.jpg 能村登四郎は中学時代から俳句に親しみ、昭和13年水原秋櫻子の「馬酔木」に投句を開始!
 『咀嚼音』の句集名は「人間が生きるかぎりつづく哀しい営みの音」による。後記で「社会への尾をひかない一個人の終始した詩のもつ貧しさ」と反省するが、飯田龍太が「多彩な人間心理の苦悩の刻明な記録」と評価し、俳句界でも好評を得た。
 初版は383句、定本は421句。初版から20句削除、58句追加した。20年を経て美意識の強い句や自然詠が追加された。その理由は日本的・秋櫻子的な美への回帰、登四郎の俳句観の変移にあろう。私が感銘した評論集『伝統の流れの端に立って』では「自然を凝視した中に香りたかい人間の息吹きを感じる自然の俳句もある」「人間とのからみ合いがなければ現代俳句ではないような意見が、未だ俳壇に横行しているのは浅薄きわまりない」と言う。
 〈ぬばたまの黒飴さはに良寛忌〉は俳壇でも犬論争!「馬醉木」秋櫻子選
の巻頭で澂賞されるが、石田波郷選の初版本には入らず。波郷は跋文でも「趣味的すぎる」と酷評する。戦後の切実な生活に、雅な美意識の句は意図に反したのだろう。だが〈老残のこと伝はらず業平忌〉を波郷は入れている。さて?
 〈ななくさのはこべのみ萌え葛飾野〉秋櫻子的美意識と波郷の〈はこべらや焦土の色の雀ども〉も頭にあった。雅に加えてまた現実性、社会性も。
 〈うすうすとわが春愁に飢もあり〉「戦後の食糧難」との自解だが、心の飢えもあると解したい。自解だけが絶対ではない。
 〈しづかなり受験待つ子等の咀嚼音〉風景句中心の「馬醉木」では新鮮な衝撃だった。波郷も称賛。〈ひらく書の第一課さくら濃かりけり〉も生新だ。
 〈林翔に 舂鮒を頒ち貧交十年まり〉前書きにある林翔は「鮒と名のつくものを貰ったおぼえはない」というが、まさに「文芸上の真」!
 〈逝く吾子に万葉の露みなはしれ〉登四郎は万葉集に造詣が深く、山上憶良「白玉のわが子古日」の亡くなった時の慟哭の歌も念頭にあったか。〈何も言はず妻倚り坐る夜の秋〉妻の悲しみが、体温を通して伝わる。普遍性の問題があるが連作としての鑑賞も肯定したい。
 〈氷菓もつ生徒と会へりともに避け〉笑いは登四郎の中で大きな要素を占める。笑い万歳!
 〈長靴に腰埋め野分の老教師〉波郷に絶賛され登四郎が作家として進む方針を决めた作。
 〈教師やめしその後知らず芙蓉の実〉高濱虚子は「此の季題の働きがどうか」と難ずる。『咀嚼音』は季語の動き幅が広いか。
 〈妻のほかの黒髪知らず夜の梅〉ヒューマニズムに富む人間肯定。人間探求派の影響が強く、特に草田男に魅了され、破調も多い。〈梅漬けてあかき妻の手夜は愛す〉万葉相聞歌?
 〈子にみやげなき秋の夜の肩ぐるま〉子への愛情に満ちた句が多い。虚子七絶賛!〈白地着て血のみを潔く子に遺す〉。  〈月光のふりけぶらせり箒草〉季語の本意を捉えた抒情がある。
 『咀嚼音』には典型的な切字が少ない。しかし、後年〈切れ字とは露一粒の厚みとも〉『芒種』と切字を深く見直す。
 登四郎は生涯「伝統と新しさ」を意識した。『咀嚼音』で教師愛、家族愛に満ちた個の世界で自分を見つめ尽くし、『合掌部落』では社会・風土に目を向けた。『枯野の沖』では個への内面を深く見つめた。以後は遊びの要素も増え、淡白で味わい深い作をなし、最晩年まで老艶とも評される世界を表現した。
 私は「俳句は豊かな人生経験と思いの深さが生きる文芸」と確信!登四郎も「俳句は人生の傾斜・諦観から生まれてくる文学」と言う。それらを生かして句作し、俳句を深く愛してほしいと切に願う。(伊澤 貴美)

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