春季俳句講座春季俳句講座

第1句集を読む 師系を超えて(3)

【俳句文学館 2019年(平成31年)7月5日号】

吉岡禅寺洞『銀漢』
「天の川、西へなだれて」――野中 亮介

1nonaka.jpg 吉岡禅寺洞は明治22年に福岡に生れた。新興俳句に大きく関わった興味深い作家だが語られることは少ない。また、「天の川」と関係をもつ優れた俳人たちがいる。富安風生、日野草城、芝不器男、篠原鳳作、杉田久女、竹下しづの女たちだ。さらに久女には女性俳句会を指導させ、橋本多佳子らが育っていった。
禅寺洞は裕福な環境に育ち、門下の俳人への支援も惜しまなかった。昭和7年出版の第一句集『銀漢』の贅沢な装丁や句の配列などに頓着しない編集から、奔放な性格が見て取れる。
〈季節の歯車を 早くまわせ スウィトピーを まいてくれ〉
主宰誌「天の川」(昭和36年3月号)に横書3行の形で掲載された辞世の句である。「ホトトギス」同人でもあった禅寺洞が、何故こうした俳句に変っていったかを時代の趨勢や弟子との関係などを通し見ていきたい。
禅寺洞は15歳の時に河東碧梧桐選の「日本」に投句を始め、氏の提唱する新傾向俳句に熱中する。碧門で身に付けたことは彼の中に強く残ることになる。
当時は「ホトトギス」を中心として俳句界が大きく動き始めた頃である。各地に多くの結社が発足し、虚子は福岡にも度々足を運んだ。大正6年に虚子が来福し〈天の川の下に天智天皇と臣虚子と〉を詠んだ。この折の句会では禅寺洞は有季定型の落着いた句を詠んでいる。同7年、禅寺洞は虚子の句にちなみ長谷川零余子を選者とし「天の川」を創刊。このとき夫の久保ゐの吉と共に福岡市で文学サロンを開いていたより江の参加を促した。同9年、零余子に替わり禅寺洞が選者となり、「選句も亦独創だといひ得る」と述べているが、これは虚子が昭和19年『中村汀女句集』の序文で「選は創造なり」と記す四半世紀も前で、この頃から門下の俳人が活躍し始める。
大正11年、虚子は「かつて見ざるほど、その内容が高級」と「天の川」を激賞するが、そこには禅寺洞の下に集う俳人たちを「ホトトギス」の発展に活用しようとの意図が伺える。
京大、東大に続き大正14年「九大俳句会」が横山白虹を幹事として復活、禅寺洞は顧問に就任し指導にあたる。「天の川」に白虹が入会すると、彼を中心とした若手の先鋭的な会が結成された。禅寺洞は当時、こうしたグループの影響を受け、社会性俳句に手を染めていく。
そもそも影響を受けやすい性格だったようで碧門として定型を無視した句を作り、虚子と出合うと伝統的な句を詠み、白虹らと交わると先鋭的な句を作るなど自分の句風を変えていく。そうした姿勢から次第に弟子が距離を置くようになる。次々に弟子たちが「ホトトギス」の巻頭になっていく中、禅寺洞は2句欄周辺に留まっている。
昭和7年、禅寺洞は「ホトトギス」の初巻頭になった久女を批判するような合評会記の掲載を「天の川」に許している。またしづの女から、有る俳人との会話の中で「天の川にはアンチホトトギスがいますから」との話をしたことを聞き、彼女への批判も込めて「私の立場を語る」という弁明を誌上に載せる。そこには彼の主宰としての屈折した感情が垣間見える。
昭和9年、禅寺洞は「天の川」に「無季の問題等」を記し「私は俳句に無季を承認します」と述べている。また、京大俳句会と同調した白虹らを容認する「天の川」は「ホトトギス」にとって受け入れ難い存在となっていった。
昭和11年、草城、久女、禅寺洞が「ホトトギス」を除名になる。草城は後に許されるが禅寺洞は除名されたまま終ることになった。戦後は口語俳句協会を設立し、生涯その普及に携わっていく。些か風変わりな一人の俳人が福岡にいたこと、その主宰誌から俳壇を代表する多くの俳人が生れたということを知って頂きたい。(丹羽 啓子)

津田清子『礼拝』
「大地に根を張る詩魂」――角谷 昌子

1kakutani.jpg 津田清子は大正9(1920)年、自作農の次女として奈良県に生まれた。9歳で母と祖母に死別し、その2年後父が脳溢血で半身不随となり、叔母の手で育てられた。
昭和23年、山口誓子の「天狼」、橋本多佳子の「七曜」創刊。短歌を学んでいた清子は、多佳子の句会に出席し、その美しさと俳句表現の直截さに魅かれ、「七曜」に同人参加、「天狼」に投句を始める。そして前川佐美雄の短歌指導から離れ、俳句一途となっていった。
昭和34年刊行の第1句集『礼拝』には、昭和23年から33年の450句が収められている。その序文に誓子は、清子の「料理をよく食べた」と記す。料理とは俳句のことで、次々に師に挑むように新鮮な句が出されるので、誓子は清子俳句と「格闘」したと書く。そして「天狼俳句を代弁するこの作者のすばらしい業績を見よ」と賞讃した。
誓子は「格闘」した句として〈燈に遭ふはるるごとし寒夜ゆく〉〈眞處女や西瓜を喰めば鋼の香〉〈夜の卓智慧のごとくに胡桃の実〉〈記憶喪失水母の傘の中の海〉などを挙げる。清子の卓抜な想像力、表現力、比喩に刮目し、高く評価した。
一方、多佳子は句集の「跋」で、「娘の背丈がぐんぐん伸びるのを見て驚く母親のやうに(中略)眼を瞠っていた」と慈愛に満ちた思いを述べている。
清子俳句の特色として「断定の潔さ」「精神力の強さ」「詩心の充溢」が挙げられる。また、「表現の多様性」にも特色があり、〈木を揺さぶる子がゐて夏の家となる〉〈虹二重神も恋愛したまへり〉には関係性の強調と詩的表現。〈紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る〉には、一物仕立ての迫力と重複表現、終止形の活用が見られる。他にも否定形・命令形、比喩や漢字熟語を効果的に用いた句もある。誓子の得意とした文体駆使(リフレイン・倒置法)や関係の詩的把握なども自分のものにしている。
さらに〈秋の海航くのみなるに旗汚る〉〈終夜ともる聖燭に火蛾あやまてり〉〈すべて打消す冬の河逆波立ち〉〈冬越す蝶荒地は母のごとく痩す〉〈雪の地へ滴るシャツは罰すべし〉などには、強いマイナスのイメージを持つ語が用いられている。年少時に肉親との相次ぐ永訣によって無常観を抱いた清子は、厳しく自分に向き合い、そして教会に通い、魂の救済を求めたのだろう。
しかし清子は決してキリスト教徒ではなかった。「礼拝」とは、清子が「生」に真向うための祈りそのものだったのだ。
また〈火口覗く生死の生の側に吾〉のような無季の句がある。自己の存在に肉迫しぎりぎりの生死を詠むとき、季語が省かれていることにも注目したい。
昭和38年多佳子が逝去。清子は「俳句生活の中で暗く悲しい時代」と言い、「天狼」への投句を中断する。そんな清子を励ますため、奈良句会を催したのが誓子だった。
51歳のとき、清子は「沙羅」を創刊する。創刊号には〈ふかき罅もちて流氷つながれり〉〈氷原に鷲来て吾の生身欲る〉などがあり、いのちあるものの存在が浮彫りになり、清子の深い孤独感とそれを肯定する強さが打ち出されている。
終生奈良に親しみ、その大地に根を張り続けた清子には、土着の強さがあり、地下水を汲み上げる強靭な詩魂がある。そしてこの思いが、60代になって荘子の「無用の用」や人間の言語や思考を超えた「無限定の世界」に結びついたのであろう。
その影響のある〈無方無時無距離砂漠の夜が明けて〉などを収めた句集『無方』で、第34回蛇笏賞を受賞した。そして同人誌「圭」終刊後、平成27年5月5日逝去。享年95。最晩年の〈朴落葉水が欲しいか火が欲しいか〉〈雪の渓死の贅沢を思ふべし〉は、自己の存在を追求し続けた清子の揺るがぬ精神性の高さを余すところなく示している。(久保千恵子)

飯島晴子『蕨手』
「難解句を読み解く」――中原 道夫

1nakahara.jpg 飯島晴子は、大正10年、京都に生まれる。38歳のとき夫の代理として「馬醉木」の句会に出席し、能村登四郎と出会うも、藤田湘子創刊の「鷹」に参加。51歳のとき、第1句集『蕨手』を上梓。第6句集『儚々』にて蛇笏賞受賞。79歳自死。
『八頭』『朱田』あたりから晴子を読み始めると『蕨手』は特に難解と感じる。予定調和を嫌う晴子の底に流れるものは「グロテスク美学」。「グロテスク」は「洞窟」(グロット)から来ている語で、古代の宮殿を差す。グロテスク様式は、そこに描かれていた壁面装飾を16世紀のルネッサンス期に宮殿の内装に取り入れた人面や植物などの奇妙な文様様式であり、自然の法則や本来の大きさなどが全く無視されている。それはやがて文学にも及び『ノートルダムのせむし男』、『白痴』などの、有る意味、無気味な人物を登場させる点に、その特徴がみられる。
京都という因循な環境、その独特な気候や深く重んじられた伝統のなかで育ち、一人っ子であったがゆえに、通常より頑固で、シニカルな目をもった晴子は、このような異質・異彩なものへの興味が人一倍強かったのではないかと思われる。
そしてそこに出会ったのが、阿部完市の言葉の世界である。その出会いにより、言葉に対する或いは伝統的な五七五という定型に対する報復という考え方が萌芽し、自ずと難解と言われる方へ向いたのだろう。
〈狂人に青柿いくつ落つれば済む〉〈狂院のまはり青田の泥細かく〉などの特殊能力を有するといわれるサヴァン症候群の人への興味。平穏とは真逆に生きる人々への関心。〈別の死が夏大根のうち通る〉の、大根の鬆のなかに自らを置き、そこに死を見る目線。実寸で物を捉えず、更にそこに死を存在させてしまう異様さが見て取れる。あるいは『蕨手』全体に見られる白の多用。白以外の明るい色は少なく、季語もまた明るく笑いをもたらすような幸福感を醸し出すものは少ない。
更なる特徴として、言葉の意味性の簒奪〝奪衣婆〟ともいえる言葉との格闘が挙げられる。句作にあっては、まず言葉を探る入口があり、その言葉の言霊に返礼していくかのように、言葉の深みにはまっていく。出口が見えない闇のなかをさまよい、「その暗闇の中で、定型の触手が全く偶然に触れた言葉を選んだ瞬間、出口がパッと開く」。「言葉は自分たちの意志で動いているうちに或る瞬間、カチッと一つのかたちをつくる。このカチッという感触が得られたとき(略)、言葉の伝える意味とは決定的に違う一つの時空が見えているはずだ」と晴子はいう。
ところで、今回は、『蕨手』所収の難解と思われる60句ほどを抽出した。
〈旅客機閉す秋風のアラブ服が最後〉「アラブ服」で終わらせれば、定型に納まるにもかかわらず、敢えて「が最後」としている。もう旅客機には誰も入れないと、まるで人々を拒否するかのような、「閉す」という言葉への強い思いの表れであり、さきほど述べた定型への報復がある。この一言を入れざるを得ないのが晴子である。〈一月の畳ひかりて鯉衰ふ〉。京都の風習や家の特徴である古い畳、そこへ差す冬の光。下五は、作者の投影であろう。〈瓜畑死人ばかり腹がたつ〉。誰もが一度は死を考え、死を迎えるという当たり前のことであるにもかかわらず、下五に妥協のない、わがままな晴子らしさがある。〈餅搗のからだのなかへ紐放つ〉〈ぼろぼろの芹摘んでくるたましひたち〉などの独特な身体感覚もみられる。
いずれにしろ晴子の性格、京都育ちという環境に、生来の好奇心の強さ、語彙への興味などが相俟って、その難解さが形成されていったのである。(峯尾 文世)

阿波野青畝『萬両』
「長生きは得でっせ」――伊藤 伊那男

1itou.jpg 阿波野青畝は、明治32年奈良県に生まれた。俳句は作者の経歴を知ってもらうことで理解されやすい文芸であり、作者の名前が俳句の前書きである。この思いで青畝の略歴を繙いてみた。ところが職業については「角帯を締めた管理人」としか語っておらず、阿波野家の生業は知られていなかった。だが有難いことに直近の「かつらぎ」5月号の創刊90周年特集の堀真一路氏の「大阪の青畝先生」という記事で、不動産の貸借などを行う土地持ちの資産家と、判明した。
青畝の故郷は、奈良県高市郡大字上子島、其処の高取城は日本三大山城の一つ。本名は橋本敏雄。橋本家は下級士族の家系であった。城と城下町との間の高台にある生家からは奈良を囲む生駒山、二上山、葛城山、金剛山が見える。青畝の俳号は通学の途次に馴染んだ「青い畝傍山」の説と、青は当時の「倦鳥」主宰の松瀬青々の青からとも言われる。
スペイン風邪のため兄達を亡くした彼は19歳で地元の八木銀行、現在の南都銀行に就職。その後大正12年23歳で阿波野貞と結婚し、大阪に居を構えた。〈大阪の煙おそろし若布売〉、〈一つ扨て生まれてさみし蘭の蠅〉という句には自註で「養子として大阪の住人となった。阿波野の家風が厳しかったことは、私の慕郷心をつのらせた。句集『萬両』は大和恋しを基調とする作品である」、「一匹の蠅をして己の境涯の虚無観を語らしめた。辛抱とさみしさを詩の糧に取りいれた」とある。
『萬両』は大正4年、青畝16歳から昭和5年31歳までの句が収録されている。16歳でホトトギス誌を購入し、郡山中学校の原田濱人に師事した青畝は18歳のとき奈良に来た虚子から村上鬼城が同じ難聴の境遇と聞く。その後ホトトギスの客観写生偏重、主観排斥に憤慨した師原田濱人に倣って、虚子に反駁の手紙を送る。結果、虚子は青畝にのみ激励の返事をし、青畝は写生の修行に励む。やがて濱人はホトトギスを去る。虚子が『萬両』の序文の中で、15年前のこの件に触れ、抒情の人である青畝へ、客観写生を奨励した結果、情熱と写生が渾然融和し、その後は完璧な形で、独歩の調子を把持して熟成したとある。
『萬両』の特徴として仏教用語や万葉集の用語を駆使していること、大和の地霊を汲み取った地名の配置が揺るがないことなどを挙げることができる。中でも「涅槃」の句は6句あり、集中の白眉といえよう。〈葛城の山懐に寝釈迦かな〉ーこの句の元は〈どの山の焼明りかやなつかしき〉ではないかと推察するが、数年を経て胸の中で巨大な涅槃像が結実して葛城山の三分の一ほどになってきたのではないか。写生仕立てだが青畝の心の中の寝釈迦なので、主観句でもある。〈案山子翁あち見こち見や芋嵐〉ーの「芋嵐」は青畝の造語である。この句の季語は「案山子翁」だが、のちに芋嵐を季語として使う俳人が増えて歳時記にも載るようになる。〈座について庭の萬両憑きにけり〉ー「生家の庭の萬両が冬の蕭条とした風景の中で灯火のように彼を励ましていたのである。「憑依」という言葉があるように「憑」には亡霊や魔性が乗り移るという意味があり、それほど故郷は彼にとって重みをもつ存在だった。
青畝は主観と客観の関係は掌の表裏一体に例え、手の内側を主観とすれば手の甲は客観、この表裏をひき離せば手に生命がなくなり、主観も客観もなくなるという。
4Sと呼ばれた俳人は全員長生きであるが青畝は一番であった。77年間作句を続けたが、その俳句は『萬両』でほぼその基盤が確立し、その芽を育てていく。虚子の教えに示唆を受け、作句の座標軸を貫き通した一念が見事であったと思う。 (武田 花果)

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