俳句の庭/第81回 袋川の思い出 今井 聖
三歳から十二歳まで鳥取市に住んだ。最初は湯所という町で家の前に少年鑑別所があり、酔った父は悪い子だった僕を夜、鑑別所の門の前まで引きずって行き、「この子をしばらく預かってください」と中に向かって大声を上げた。僕は怖くて周囲の家から人が出てくるほど大泣きをした。湯所の次に五キロほど離れた立川町に引っ越した。引越の荷を馬に引かせたのを覚えている。昭和三十年代と言えど公道を馬車が通るのは珍しかった。この頃鳥取大学付属小学校の入試に落ちて近所の修立小学校に入った。受験の落ち癖はこの頃から始まったのだった。大学入試も三年度に渡って計二十校近く落ちている。修立小学校は1872年創立で尾崎放哉が出ている。家の近くには放哉の旧居があり「咳をしても一人」の句碑が立っていた。僕はその後三年生のときに編入試験で再び鳥大付属小を受けて転校した。こちらで石破茂首相の五年先輩になった。そんなわけで僕は放哉の後輩であり現首相の先輩になる。だからどうということもないが。家の近所には袋川という小さな川が流れ土手には桜並木が続いていた。この川でよく鮠や鮒を釣った。雨の日に合羽を着て釣りをしたあと悪寒がして高熱が出た。肺浸潤と診断され二カ月ほど学校を休んだ。その間に白兎海岸にある養護学校に入れられそうになった。この話が出た時も大声で泣いて抵抗しなんとか転校せずに済んだ。あやうく因幡の白うさぎになるところであった。