俳句の庭/第82回 長峡川と竹下しづの女 坂本宮尾
女性俳句の草分け、竹下しづの女の評伝を書いた折に、生地の福岡県行橋市を訪ねた。そこに流れているのは長峡川で、田畑を潤しやがて周防灘に注ぐ。しづの女は大規模な農家の跡取り娘として、この川のほとりで生まれ育った。川の近くには幕末の激動期に村上仏山が建てた私塾、水哉園があり、多くの塾生が儒学や漢詩などを学んだ。今も水哉園跡として手入れの行き届いた庭園が残っている。
塾名の水哉園は『孟子』の「離婁章句下」の「水なる哉」に拠るもの。学問に取り組む姿勢を、源泉からこんこんと湧きだし、常に流れて止まず、四海に至る水に喩えたものということだ。この塾で学んだ漢学者の末松房泰から、若き日のしづの女は古典や漢学の手ほどきを受けた。
〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎〉によって、しづの女は「ホトトギス」雑詠(大正9年8月)の巻頭を得て、彗星のように俳壇に登場した。特異な下五が目を惹くが、そこには彼女が故郷で学んだ漢学の造詣がある。
長峡川の河畔には、もう一つのしづの女代表句の句碑が建っている。
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的
波瀾に富んだ歳月を経て、二度目の「ホトトギス」巻頭となった句である。句碑の背後を金木犀がすっぽりと囲み、対岸から見ると小さな杜のようだ。ゆったりと流れる長峡川周辺の景色を眺めると、たゆむことのない姿勢を持続することの大切さを説いた水哉園の教えが浮かんでくる。それは新領域に挑戦し続けたしづの女の、独立独行の人生の礎であったように思える。