俳句の庭/第60回 二つの月 ―西安と長安と― 鈴木直充

鈴木直充
昭和24年 山形県生まれ
昭和48年 春燈俳句会入会
平成4年  春燈新人賞受賞
句集:『素影』、『寸景』
現在:「春燈」主宰、俳人協会理事、塔の会会員、素の会会員

 昭和五十九年九月二十八日から十月七日まで、中国政府の招待による日中青年友好交流が実施された。中国政府が日本の二百余りの団体から青年三千人を中国に招き、両国の友好を深めようとするものであった。俳人協会からは団長・村井隆、副団長・黒田杏子、団員・片山由美子、西村和子、能村研三、皆吉司、吉野洋子、脇祥一、和田耕三郎の皆さんと鈴木直充の十名が派遣された。私たち俳人協会の派遣団は北京、西安、上海の名所旧跡を訪れ、中国の各界の青年達と交流をした。
 訪問地で私が深く感銘を受けたのは西安の月であった。十月四日、華清池と兵馬俑を訪れたあと、交流会場の興慶公園に着くと月が高々と上がっていた。村井団長は〈長安の大路の月を連れあるく〉と詠まれた。私は興慶公園で嘗て李白も愛飲したという白い濁り酒を振舞われ〈月よくて李白の飲みし酒重ね〉と詠んだ。
 西安は古くは中国古代の諸王朝の都となった長安で、七一七年に遣唐使の阿倍仲麻呂がここに留学した。仲麻呂は唐の朝廷に重用され、文書作成や管理等の役職を務めたことから李白や王維などの唐詩人と親交があった。在唐三十五年を経ていた仲麻呂は、日本へ帰国することになり、送別の宴で望郷の思いを込めて〈天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも〉の和歌を詠い上げた。
 しかし、仲麻呂が乗った帰国船は暴風に遭い、中国王朝が支配していた今のベトナムの驩州に漂着した。李白は仲麻呂が亡くなったと伝えられて「晁卿衡(仲麻呂の中国名)を哭す」と題する追悼の七言絶句〈日本晁卿辭帝都/征帆一片遶蓬壺/明月不歸沈碧海/白雲愁色滿蒼梧〉を捧げた。李白は第三句目で仲麻呂を明月に見立てて「名月のような君は青い海に沈んで帰らず」と悼んだ。けれども、仲麻呂は生きて長安の都に戻った。それから帰国を願いながらも果たせず七十二歳で没した。
 月に詩人の心が宿り、その心から言葉が迸り出る。仲麻呂の月も李白の月も両人の心を哀切に映し出している。