俳句の庭/第64回 私の登山歴 能村研三

能村研三
1949年、千葉県市川市生まれ。1976年より福永耕二に師事。 「沖」入会ののち、同人を経て2013年から主宰を継承。国際俳句交流協会副会長、千葉県俳句作家協会会長。「朝日新聞千葉版俳壇」選者。「読売新聞」地方版選者。「北國新聞」俳句選者。1997年、俳人協会新人賞を受賞。句集に『鷹の木』ほか7冊。他にエッセイ集。公益社団法人俳人協会理事長。

 私の登山歴は決して多くはないが、中学、高校、大学時代に富士山に三回登ったことがあり、さらには浅間山、立山、三原山、阿蘇山など数えられるほどの経験で、登山家から見れば笑われてしまうような登山歴である。しかも俳句を作るようになってからは、吟行会のハイキング的なものを除いては登山らしき山登りはしていない。
 今から思うと、山岳俳句を志すというまではいかないものの、もう少し山登りの経験を俳句にしていればよかったと後悔している。
 先師登四郎も本格的に登山に取り組んだとは言い難いものの、健脚で私よりは山登りを得意としていたようだ。
 句集『合掌部落』の時代には、姉萌子と連れ立って立山に登っている。
  霧をゆき父子同紺の登山帽
  霧裂きてぎくりと峙ちし一の壁
 さらには、昭和三十三年四十七歳の時に鳥取県の伯耆大山に登っている。
  孤独登山者に巌裏ほそき滝一条
  日の色の霧が霧追ふ行者谷
 昭和五十三年には大学時代の同級生と八甲田山に登っている。
  八甲田連峯秋色未だし西つ方 
  榧の木平はしりの紅のななかまど

 私に俳句のてほどきをしていただいた福永耕二先生は文学青年とおもいきや大変な登山家であった。市川学園時代、文芸部の顧問も務めながらも山岳部の顧問も務められ、生徒たちを引き連れて北アルプス縦走を何度も試みられている。
 第一回目の「沖」の勉強会は那須で行われたが、私は二十代で、この時も夜遅くまで酒を飲んでいたにもかかわらず、まだ夜が明けきらないうちから私たちを引き連れて山登りをして、その健脚ぶりに驚かされたことがあった。
 私は三十代になってから富士登山に挑戦したことがあるが、この時は悪天候に遭い途中下山を余儀なくされた。
  荒天に小屋の夏炉の奥湿り 
  無念とも勇気とも中途下山せり
 最近は歩くのも以前より遅くなったが、歩けるうちに時間をかけても富士山に登ってみたいと思うようになった。