俳句の庭/第68回 伯耆富士 今井聖

今井聖
1950年新潟に生まれ鳥取で育つ。加藤楸邨に師事。俳誌『街』主宰。著書に小説『ライク・ア・ローリングストーンー俳句少年漂流記』(岩波書店)、岩波ジュニア新書『部活で俳句』他に句集三冊。評論集『言葉となればもう古しー加藤楸邨論』(朔出版)で第32回俳人協会評論賞受賞。俳人協会理事。日本シナリオ作家協会会員。

 1964年中学二年の時、旺文社の学習雑誌『中二時代』に投稿欄を見つけた。鳥取県米子市の両三柳(りょうみつやなぎ)という海辺の集落にいたので、沖に見える烏賊釣船の漁火を詠んだ短歌と、目の前が自衛隊の演習地だったのでそこに揚がる雲雀を詠んだ俳句を一つずつ書いて投稿した。短歌の方は選者木俣修。これは没となったが俳句の方はなんと一席に入った。選者は石田波郷。一席といっても元の投稿句は、
青空にひばり一匹伯耆富士
波郷は「ひばりは一匹ではなく一羽と数えますが、空の広さを言うためには一つと言ったほうが効果的です」と選評に書き、
青空にひばりが一つ伯耆富士
と直してあった。波郷が添削した上にオマケしてくれたのである。しかし、この入選で田舎の中学生は有頂天になった。一席だから単純に日本中の中二の中では一番だと思ったのは仕方ないとして、ちょうどこの頃に自分の誕生日十月十二日が芭蕉忌だと気づく。「俺は芭蕉の生れ変わりだったのか。どうりで一席に入るのも無理はない」と能天気なロケットが宇宙空間に出たような「自覚」に到る。旧暦と新暦の違いに気づくような冷静さはこの中学生に無かった。「自覚」は昂じて俳句を救う使命と義務までこの中学生に背負わせることとなる。波郷とひばりと伯耆富士は共謀して一人の能天気な中学生を「天才」に仕立て上げ、この時点からこの若者の社会的なドロップアウトが始まるのである。