今日の一句:2023年08月
- 八月一日
君亡くてさみしき夜を秋といふ 山田みづえ 津田好さんを悼む。下五はあるかも知れないが。無常をつくづく考えさせられることだった。
「山田みづえ集」
自註現代俳句シリーズ・続編一五
- 八月二日
雨の出羽淡彩に夏過ぎにけり 細谷鳩舎 この年は雨続きで、空、木々の色、水や花の色さえ冴えなかった。
「細谷鳩舎集」
自註現代俳句シリーズ五( 三四)
- 八月三日
桐の幹濡れゐて遠き花火かな 大嶽青児 私の句には、「や」「かな」「けり」の切字が多い。意識して使っているのだが、それによって句が古くなるとは思っていない。
「大嶽青児集」
自註現代俳句シリーズ五( 八)
- 八月四日
手花火の颯々ひらく前久し 篠田悌二郎 線香花火は、火の玉が煮えつつ小さくなり、それから、松葉の閃光が走る。その短く永い期待。
「篠田悌二郎集」
自註現代俳句シリーズ一( 一七)
- 八月五日
校庭の納涼映画裏から見る 石原 透 私の小学生の頃、こういう風景が日本にもあった。インドでは今もこういう風景を見る。ちなみにインドは世界最大の映画製作国である。
「石原 透集」
自註現代俳句シリーズ一〇( 四九)
- 八月六日
折鶴の声なき声や原爆忌 日下野仁美 折鶴は物を言わない。しかしそこから声なき祈りの声が聞こえてくる。
「日下野仁美集」
自註現代俳句シリーズ一三( 一七)
- 八月七日
吹き割るる滝千条の音重ね 佐怒賀直美 「吹割の滝」での作。東洋のナイヤガラとも言われ、落差こそ7メートル程度だが、幅は30メートルほど。飛沫を受けながら見る光景は迫力満点。
佐怒賀直美 令和四年作/「橘」五三九号
- 八月八日立秋
漁夫の葬舟を熱砂に曳き上げて 津田清子 篠島では漁村で葬式があった。砂浜に揚げられている舟を見て、その舟の主が死んだのかも知れないと思った。
「津田清子集」
自註現代俳句シリーズ三( 二一)
- 八月九日
消えたるは点けあひ原爆聖火ミサ 千代田葛彦 その夜、蜒々と炬火の行進が続き、広場で群衆による慰霊の野外ミサが執り行なわれた。途次、消えたたいまつにはいのちの火を継ぎ合って。
「千代田葛彦集」
自註現代俳句シリーズ二( 二五)
- 八月十日
法師蟬母が遺せし医者いらず 立石萠木 わが家の庭に「アロエ」がある。亡母が遊びに来たときのものが増えたものである。母は切傷にも虫さされにも汁を搾ってつけていた。
「立石萠木集」
自註現代俳句シリーズ一〇( 四八)
- 八月十一日
八月を里に出てくる山の雷 伊藤白潮 寄棟造りの宿場が今も残る、会津西街道旧大内宿をたずねての作。荷駄の中継や宿泊地として重用されたという一軒に泊った晩激しく雷が鳴った。
「伊藤白潮集」
自註現代俳句シリーズ五( 六一)
- 八月十二日
生身魂川鳴つて家しづかなり 伊藤通明 生身魂の習わしはいつ頃からはじまったのか知らないが、縁者が集ってしっとりと落着いたなかにも明るい雰囲気があって、子供心にも楽しかった。
「伊藤通明集」
自註現代俳句シリーズ四( 九)
- 八月十三日
知らぬひと手をあはせゆく門火焚く 藤岡筑邨 門火を焚いていると、通りすぎてゆく人が幾人もいる。その中で手をあわせてゆく婦人がいた。ごく自然に、であったが人柄がしのばれた。
「藤岡筑邨集」
自註現代俳句シリーズ七( 六)
- 八月十四日
燃え立ちぬ少女ひとりの迎火も 市村究一郎 同じ丹波山村。一寺に集って一斉にそれぞれの墓前で火を焚く。横山会吟行だったが、この夜仲間の一人が雀蜂に刺されて大騒ぎをした。
「市村究一郎集」
自註現代俳句シリーズ四( 七)
- 八月十五日
八月十五日の水を打ちにけり 西嶋あさ子 八月十五日をどう過ごすか、定まってはいない。丸一日、心の喪に服す。
「西嶋あさ子集」
自註現代俳句シリーズ八( 七)
- 八月十六日
棚経僧燭を扇で消し去りぬ 野村喜舟 盆経を上げに来た僧が手でなく持参の扇で消して帰った。律気な人である。お布施を軽く会釈して受取り半紙に包んだ瓦煎餅を懐に入れた。白足袋の太緒の草履である。手順が整っていて爽かである。
「野村喜舟集」 脚註名句シリーズ一( 一四)
- 八月十七日
幾万の今日の生甲斐阿波踊 泉田秋硯 阿波踊を見に行ってみると何万という人が踊っているが、その人達は本当に踊る事に生甲斐を感じているように思えた。明日は死んでもよい。
「泉田秋硯集」
自註現代俳句シリーズ八( 九)
- 八月十八日
鎧戸に西洋朝顔ひらく昼 鳥越すみ子 神戸の異人館。少し小ぶりではあるが、コバルト色の朝顔が真昼間、みごとに咲き揃っていた。西洋種とのこと。やはり朝顔というのか。
「鳥越すみ子集」
自註現代俳句シリーズ七( 一五)
- 八月十九日
松虫草なごりの花をめでにけり 関根喜美 信濃の八月はもう秋である。ほとんどの花が種をつけており終の一輪であった。
「関根喜美集」
自註現代俳句シリーズ一一( 一三)
- 八月二十日
秋となり時が返してくれし人 赤松蕙子 親の死去という過熱した日々が去って秋になった。時期をはずしてお悔みに来てくれる親身の人びと。二三枝おばさんも鈴虫をもって焼香に来た。
「赤松蕙子集」
自註現代俳句シリーズ三( 一)
- 八月二十一日
八月の雲なき空を怖れけり 石山ヨシエ かつて「ひろしま」という自主映画を観たあと炎天へ出た。その時の雲ひとつ無い青空が潜在意識のどこかにあった。
「石山ヨシエ集」
自註現代俳句シリーズ一二( 三七)
- 八月二十二日
秋さびし藤圭子の目大きな目 福永法弘 今日は藤圭子の命日。高1の時に握手してもらって以来の大ファン。笑っても喋っても、彼女の目の奥にはいつも寂しさが宿っていた。
福永法弘 「天為」令和2年11月号
- 八月二十三日処暑
けふ処暑の風に命の生れけり 杉本光祥 八月も下旬になると、吹いてくる風も生き生きとしてくる。生き返った気分になるから不思議だ。太陽は規則正しく巡っているのである。
「杉本光祥集」
自註現代俳句シリーズ一三( 一八)
- 八月二十四日
本社ビル裏に路地あり地蔵盆 森田純一郎 少子化の今も、京都市内では八月二十四日頃になるとビルの裏手の通りの地蔵の前にテントを張り、地域の子供達を集めて地蔵盆のお祭りをするのだ。
森田純一郎 「かつらぎ」令和3年8月号
- 八月二十五日
桑畑わたる念仏踊の灯 大澤ひろし 叔母巴の盆会である。念仏踊を迎えるために庭がきれいに掃かれ、鉦の音が近付いてきた。養蚕に励んだ叔母の姿が髣髴としてくる。
「大澤ひろし集」
自註現代俳句シリーズ七( 三七)
- 八月二十六日
歌少しく崩れんとする踊かな 八木林之助 伊那の新野の盆踊は笛太鼓一切使わない。櫓の音頭取は昔乍らの唄にアドリブを入れてるようだ。笑いをこらえて。
「八木林之助集」
自註現代俳句シリーズ三( 三七)
- 八月二十七日
山門出て人の世の道秋暑し 雨宮昌吉 山門を一歩出ると現世。人車溢れて喧燥をきわめる人間界。人の世はどうやら加速度的に住みにくく暮しにくくなって行くようだ。
「雨宮昌吉集」
自註現代俳句シリーズ四( 三)
- 八月二十八日
新秋や時も空気も濃く流れ 長倉閑山 新涼が感じられる頃、筋肉労働も頭脳労働も能率が上って勤労の充実感が濃くなる。吸っては吐く空気もうまい。時間も空気も濃さが増したのだ。
「長倉閑山集」
自註現代俳句シリーズ六( 三)
- 八月二十九日
新涼や俄かにふえしせゝり蝶 五十嵐播水 残暑も漸く去って新涼になった。庭に急に小さな紫色のせせり蝶がふえて来た。この蝶が出て来ると秋が来たという感じがするのである。
「五十嵐播水集」
自註現代俳句シリーズ四( 五)
- 八月三十日
白粉花過去に妻の日ありしかな きくちつねこ 結婚をしたのも離婚をしたのも、共に遠い日となって、こんな句が出来た。
「きくちつねこ集」
自註現代俳句シリーズ三( 一一)
- 八月三十一日
白きもの白くたたまれ休暇果つ 有吉桜雲 いよいよ二学期。物も心も純白な気持ちで出発。
「有吉桜雲集」
自註現代俳句シリーズ八( 四五)