今日の一句

三月十七日
つるくやからつぽの天残てんのこりたる中川靖子

鶴が帰った後の天は深閑として、広々とした空の蒼さだけが目に焼きついた。

「中川靖子集」
自註現代俳句シリーズ一三(三三)

三月十六日
流氷りゅうひょう期机ききじょうあおきペンてり熊谷佳久子

オホーツク海には、流氷が押し寄せている寒い季節。私の机の上のペンまでも、流氷色に見えてきた。

「熊谷佳久子集」
自註現代俳句シリーズ一三(二九)

三月十五日
竹藪たけやぶとりあそべるはん西風にし前澤宏光

今は鶏の放し飼いもあまり見かけなくなった。黄身の濃い卵を産む、と聞いていた。

「前澤宏光集」
自註現代俳句シリーズ一一(五一)

三月十四日
なえ一本いっぽんらいいち度地どちたく林 昌草

長男、長女ともに、高校を卒業。長男は、卒業記念として、木犀の苗を貰ってきた。そして、梵文学方面へ、長女は、演劇方面へ進んで行った。

「林 昌草集」
自註現代俳句シリーズ四(三七)

三月十三日
あかるさにみちうすれゆく吹山ぶきやま能村登四郎

句集『幻山水』の最初の句。芽吹の光の中の径。次第にうすれていくように見えるのは、あまりにも明るい光のせいであろうか。芽吹山ののどかな情景に、山歩きでもしたい気分になる。登四郎も「この句は明るくてすんなりしているので好きだ」と言う。(安居正浩)

 
「能村登四郎集」 脚註名句シリーズ二(五)

三月十二日
星空ほしぞらのかたむくこう水取みずとり井沢正江

修二会僧の沓音をあとにして二月堂の磴を下りると、手さぐりの闇に覆いかぶさるように星のページェントが空にはじまった。

「井沢正江集」
自註現代俳句シリーズ二(二)

三月十一日
引鶴ひきづる一声空ひとこえそらべにけり杉本光祥

鹿児島県出水平野での作。出水は鶴の飛来地として有名。その数は一万羽を超えるという。春になるとリーダーの合図で一斉に飛び立つ様は壮観。

「杉本光祥集」
自註現代俳句シリーズ一三(一八)

三月十日
小名木おなぎ川流がわながまずよくうしゅう平間真木子

三月十日。小名木川の畔りに立つ。ここに死せる妹に、母のことを告げに来たのだった。

「平間真木子集」
自註現代俳句シリーズ六(二五)

三月九日
はるあめはれゆくうしおとなしく佐藤安憲

乳牛はおとなしい動物。それだけにこんな時は余計、可哀想になる。

「佐藤安憲集」
自註現代俳句シリーズ一三(二四)

三月八日
雛流ひなながあかたもと阿田あたわらべ小林愛子

奈良の、吉野川での雛流しである。近頃は阿田も子供の数が少なくなったそうで、吉野川まで雛を抱えた童女の列も淋しいものであった。

「小林愛子集」
自註現代俳句シリーズ一二(二二)

三月七日
鳥帰とりかえみずそらとのけじめ沢木欣一

広い湖を想像する。「鳥帰る」は、鶴、鴨などが、北方の繁殖地へ帰る春である。天と地のけじめがつかない程、茫洋とした中を点々と鳥たちが日本を去ってゆく。果てしなく広がる大空と小さな鳥たちの存在感。生きんがための生命力がいとおしい。(内藤英子)

 
「沢木欣一集」 脚註名句シリーズ二(一四)

三月六日
三月さんがつせつひとりらいさけ大竹多可志

むかしほど、大酒を飲むことはなくなった。無頼と放浪は男の憧れかも知れない。「三月飛雪」にロマンを感じる齢となった。

「大竹多可志集」
自註現代俳句シリーズ一二(四四)

三月五日啓蟄
啓蟄けいちつやロビーうずむるたびかばん比田誠子

成田空港に近い成田ビューホテル。ロビーは外国の団体客で早朝から混雑。数十個のスーツケースが道を塞いでいた。

「比田誠子集」
自註現代俳句シリーズ一二(二九)

三月四日
音淙々おとそうそう芽吹めぶきうながすやまあめ福田蓼汀

雪解に山の春がはじまる。水量が増し高まり、雨が降るたびに、山の彩が変る。静から動へ急に移りはじめる。

「福田蓼汀集」
自註現代俳句シリーズ一(一三)

三月三日
ひいなとつてもひかほしつけ菖蒲あや

お恥しい話であるが、私も人並に雛人形は買って貰ったのだけれど、それはついに父の質草として流れてしまった。この星が私の雛人形かも知れぬ。

「菖蒲あや集」
自註現代俳句シリーズ二(一九)

三月二日
ひなあられちよつとすりてかざりけり山尾玉藻

私の為の雛人形はついに買ってもらえなかった。鴻池家から頂いた狩野何某かの雛の軸が掛けられ、私の不満は募る一方だった。

「山尾玉藻集」
自註現代俳句シリーズ一〇(三一)

三月一日
ひなうみてゆくとりのこゑ鳥居おさむ

あの瞳は内へ向いているのか。それとも外の生命を恋うているのか。

「鳥居おさむ集」
自註現代俳句シリーズ七(三五)

二月二十八日
ここで今日きょうこのひとりずやみおぼろ仲村青彦

同時刻の同車輛で見知った顔に会う。車内が混んでいたら、先に降りる人を見つけてその前の吊り革をにぎる――そんな日々の中の出来事。

「仲村青彦集」
自註現代俳句シリーズ一一(五八)

二月二十七日
口笛くちぶえどりんでわか布干めほ町田しげき

同時作。口笛を吹きながら若布を干して居る海女、浪打ちぎわでは千鳥が遊んでいた。

「町田しげき集」
自註現代俳句シリーズ六(四二)

二月二十六日
ゆきけのてら結婚けっこんしょうてん本宮哲郎

ほの暗い寺の本堂を明るくする結婚衣裳展。そのきらびやかさが春を連れてくる。

「本宮哲郎集」
自註現代俳句シリーズ一一(八)

二月二十五日
黒髪くろかみかみにかぶさるだいけん藤井吉道

真摯に大試験と取り組んでいる女生徒。答案用紙に覆いかぶさるようにして答えを書いている。そのふさふさした髪が答案用紙に触れんばかり。

「藤井吉道集」
自註現代俳句シリーズ一一(二五)

二月二十四日
春一番死神はるいちばんしにがみもまたはな古賀まり子

誰も待つ春の訪れ、春一番。だが、死神もこの春一番に乗って矢を放つ。病人は春とともに逝ってしまう。

「古賀まり子集」
自註現代俳句シリーズ四(二二)

二月二十三日
きょうしつにひかりあまねきゆきかな石田小坡

日本中、寒気は厳しかった。よく雪が降った。一筋街道のわが町並も、小田急や横浜線の丸屋根駅舎も、新制中学の木造校舎にも――。

「石田小坡集」
自註現代俳句シリーズ六(五二)

二月二十二日
今日きょうはよくねこるなり風生ふうせい藤沢樹村

猫を可愛がられた風生先生の忌日は、二月二十二日。「にゃーにゃーにゃー」と覚えている。この日、野良猫を何度も見た。

「藤沢樹村集」
自註現代俳句シリーズ一一(四一)

二月二十一日
駒山こまやま町裏まちうらあぜ高木良多

西大寺、秋篠寺をみての帰途。細見綾子先生の「畦焼きの火色天女の裳に残る」の句を想い出していた。

「高木良多集」
自註現代俳句シリーズ五(四四)

二月二十日
うめいておおきないぬにさはりたし小川軽舟

近くの梅林に散歩に行くと、犬を散歩させる人が行き交う。機嫌のよさそうな犬を見るのは好きだが、人の犬をさわるほど図々しくはない。

小川軽舟  句集『無辺』 二〇一八年作

二月十九日雨水
梅林ばいりんなかにゐてたゞいっ枝描しか森田 峠

さらっと詠まれているようだが、この句の中七「中にゐてたゞ」という表現は簡単に出来るものではない。「複雑に絡まるように咲き競う梅林の中にいるにも関わらず、画家はただ一本の梅の枝を凝視して写生しているのだ」ということになるのだろう。(森田純一郎)

 
「森田 峠集」 脚註名句シリーズ二(一一)

二月十八日
はるべり鳳凰舞ほうおうまい羽根はねおと栗田やすし

谷汲の武者踊は二月十八日。四米近い竹製の鳳凰の羽根を背負い、胸には大太鼓を抱えて勇壮に舞う。羽根の擦れ合う音にもう春が近いと感じた。

「栗田やすし集」
自註現代俳句シリーズ九(一四)

二月十七日
はるえのたかむらひらきつねがわ松本 旭

「この目指すもの」(俳誌月評)執筆のため、「俳句」の渡辺寛と境川村へ。龍太氏と五、六時間話し合う。帰りに、黒文字の苗を掘ってもらった。

「松本 旭集」
自註現代俳句シリーズ四(四六)

二月十六日
うすらひのぢしうたかた平泉ひらいずみ角谷昌子


平泉の中尊寺金色堂の仏像を拝し、近くの池に歩み寄ると、柔らかい日差しの中、薄氷にいくつもの泡が透けて見えた。藤原三代の栄枯盛衰の歴史がにわかによみがえった。

角谷昌子 『地下水脈』H25・9